理想的な市民について
後藤 直樹(茨城県弁護士会)
 私はある質問をアメリカの公民教育センターでしたことがある。それはセンターが目標とする「理想的な市民像」についてである。これが具体的にどのようなものかがつかめなかった。そこで、映画でも実在の人物でもよいから、これぞ理想的な市民という具体例を挙げてほしいと質問をしたのだ。
 私はケネディ大統領などの歴史的ヒーローなどがでてくるだろうと思っていた。ところが、これに対する答えは、理想的な市民とはヒーローのようなものではなく、ごく普通に街で生活をしている市民のことで、あなたの身近にもいるのだという予想外の答えがかえってきた。ごく普通の市民のなかにこそアメリカの民主主義を支える理想的な市民がいるのだという考えに、アメリカの民主主義の強さを感じた。
 ところで、この「理想的な市民」という言葉をとらえて、それは国家に都合の良い人間を作り上げる思想だと決めつける人がいる。
 しかし、それは誤解である。大前提は、個人を尊重することにある。理想的な市民とは、個人を尊重する自由で公正な社会を一緒に築きましょうという志をもった市民をさすのであって、体制順応的な市民のことではない。自由で公正な社会は、お上におまかせでは築くことはできない。それは人類の多年にわたる自由獲得の成果であり、それはまさに私たちの努力にかかっているのだ。法教育が目指す市民像とはこのようなものだと私は理解している。
 法教育の授業では、生徒に一方的に教え込むという方法をとらない。唯一の正しい答えがあるのではないという前提で進めていく。それはなぜだろうか。ストリートローのリチャード・ロー教授の言葉を借りれば、「間違うというリスクなしでは子どもたちは進歩しないからです。民主主義的な観点からすると、学習するプロセス自体が成果であるといえるのです。討論をするプロセスそのものが民主主義を教えることなのです。自分の意見を持ち、それを相手に聞いてもらい、互いに意見を真剣に受けとめるということが生徒の価値を認めるということであり、そこに民主主義の真の価値が見いだされるのです。」ということに基礎を置くからである。
 私たちは、子どもたち一人ひとりの存在を尊重し、信頼したい。そのため、子どもたち自身に議論をしてもらい、私たちは議論のプロセスを見守り、過剰な介入は避けるという姿勢をとっている。それは、子どもたち自身が自分たちの経験の中から自ら気づくことが大切だと考えているからに他ならない。