法教育雑感(1)
平成21年3月22日
青木 寛文(長野県弁護士会)
【目次】
 第1 はじめに
 第2 「法教育」とは何か
 第3 裁判員制度と「法教育」
 第4 刑事裁判傍聴と「法教育」
 第5 模擬裁判と「法教育」
 第6 憲法教育と「法教育」
 第7 私法教育と「法教育」
 第8 ルール作りと「法教育」
 第9 「法教育」における法曹三者(ことに弁護士)の役割と学校関係者の役割
 第10 おわりに

第1 はじめに
 私が「法教育」に携わったのは,平成16年4月から関東弁護士会連合会(関弁連)の法教育委員会の委員になったのがきっかけです。この委員会は,平成16年4月に発足したものであり,私は創生期からの委員ということになります。当時,私は弁護士になってから半年ほどの新人弁護士でしたが,当時の長野県弁護士会の会長の先生から「法教育委員会は新しく発足する若くて未来のある委員会だから,若い先生に行ってもらって,大いに活動をリードして頂きたい。」 といった趣旨のはなむけの言葉(?)で送り出されたのでした(同じようなおだてに乗った人が多かったのか,この委員会のスターティングメンバーは,弁護士登録から1〜3年程度の若い弁護士が大変多かったのでした)。
 それまでの私は「法教育」という言葉を聞いたことがありませんでした。これは,私が「法教育」というものを知らなかったために,各種論考や記事に「法教育」という言葉が出ていても私が認知しなかったからということが大きいと思いますが(平成14年の関弁連シンポジウムでは「法教育」がテーマとして取り上げられている訳ですし,日弁連には既に「市民のための法教育委員会」があったはずですので,然るべき記事では然るべく取り上げられていたはずです),平成16年4月までの時点では,そもそも「法教育」というものが取り上げられること自体が少なかったのではないかとも思っています。
 それから5年経った今日では,「法教育」という言葉が随分広く行き渡ってきているように思います。そして,「法教育」の必要性を訴える内容の発言も多く目にするようになり,また,多くの「法教育」の実践が行われています。このことは大変嬉しいことであると思っていますし,私自身も今後ともその末席に連なり続けたいと思っています。
 そのように,「法教育」がメジャーな存在となりつつある現在,「法教育」として扱われたり,語られたりしていることについて最近感じていることをいくつか書いてみようと思います。
 【目次】で示したような内容を書いていこうと思いますが,今回は,「法教育」とは何かについて考えていることと(第2),裁判員制度と「法教育」について考えていること(第3)を書こうと思います。なお,【目次】で示したものは現時点での予定であり,書く順番が変わるかも知れませんし,内容自体変わるかも知れないので,ご了承下さい。また,私は,締切を厳格に定めてもらわないと仕事を際限なく延ばし延ばしにする大変悪い癖があるので,このエッセイを中途で終わらせないようにするために,毎月末までに更新する(全3回程度となる予定です)ことをお約束し,事務局の担当の方に,毎月優しく督促してもらうことで,何とか最後まで書き尽くしたいと考えています。

第2 「法教育」とは何か
 「法教育」の定義としてよく使われるのが,「法律専門家でない人々を対象に,法,法(形成)過程,法制度,これらを基礎づける基本原則と価値に関する知識と技術を身につけさせる教育」というものです。これはアメリカで1978年に制定された法教育法における定義であるとのことです。なお,法教育の定義とか,内容についてのさわりのあたりのことは,関東弁護士会連合会編「法教育〜21世紀を生きる子どもたちのために〜」・現代人文社のP11〜22に詳しく出ているので,興味のある方はご参照下さい。
 私としてもこの定義に異論はありませんが,自分なりの今までの経験や委員会での議論などを踏まえて,自分の言葉で定義を試みると,「立憲主義社会での基本原理やものの考え方を理解し,その考え方に即して自分のことや自分たちのコミュニティーのことを決めていく力を身につけ,以て幸福になるための教育」と考えています(なお,この定義は普段から「法教育」を研究してこの結論に達したというより,普段折に触れ「法教育とは何だろうか」について漠然と考えていたことを,このエッセイを書くに当たって文字にしてみたものに過ぎないことを自白しておきます)。

第3 裁判員制度と「法教育」
 「はじめに」に書いたように,今日,「法教育」の必要性を訴える内容の発言も多く目にするようになり,また,多くの「法教育」の実践が行われるようになった訳ですが,その最大の功労者は,「裁判員制度」の導入にあることはまず間違いないことだと思います。「裁判員制度」の導入にあたり,教育現場や国民全般の司法,殊に刑事司法に対する関心が高まり,司法制度や法について知りたい,教えたいというニーズが増え,それが「法教育」を受け容れる素地になっていると考えられるからです。私たちも,「法教育」の実践について教育関係者やマスコミの方にアピールする際には「裁判員制度の導入を間近に控えた今,・・・・」といった前振りをすることが多く,「裁判員制度の導入」は「法教育の必要性」について論じる際の枕詞になっている感すらあります。
 このように,「裁判員制度」が国民の司法制度への関心を喚起することになっていること,そのことが「法教育」の追い風になっていることについては大変好ましいことであると思っています。
 しかし,「裁判員制度」と「法教育」の関係に関する論調の中で,私が違和感を感じているものが一つあります。それは,「「裁判員制度」での評議に堪える市民を養成するために,法教育が不可欠である。」という趣旨の論調です。これは,評議を主宰する裁判所の側から言われることもありますし,弁護士から「推定無罪の原則を裁判員に理解させて,被告人・弁護人の主張に理解を示す裁判員を評議室に送り込むためには,法教育の充実が不可欠である。」といった文脈で語られることもあるように思います。
 私は,この論調には必ずしも賛成出来ません。
 「法教育とは何か」のところで書いたように,私は,法教育を「立憲主義社会での基本原理やものの考え方を理解し,その考え方に即して自分のことや自分たちのコミュニティーのことを決めていく力を身につけ,以て幸福になるための教育」と考えています。一方,私は,裁判員制度の意義を,国民が,自分たちのコミュニティーで生じたトラブルの処理のあり方を自分たちが決める点にあると考えています。より具体的に言うと,そのコミュニティーの構成員それぞれが幸福に生活するという見地から自分たちのコミュニティーのあり方を決める一環として,どれだけの証拠があれば,本来自由である「人」を「犯罪者」と認定をして刑罰という非自由なペナルティーを科すことが出来るのか,そのペナルティーとしてどのようなものが相応しいのかをコミュニティーの代表者としての裁判員が決めることが裁判員制度の趣旨であると考えているのです。そして,裁判員制度は,ゆくゆくは死刑制度の是非といった刑罰制度のあり方についても真剣に考えるきっかけとなっていくでしょう。
 以上のような立場から「法教育」と「裁判員制度」との関係について考えた場合,「コミュニティーのことを決めていく力を身につける」ことも含まれている「法教育」によって得られた知見を「コミュニティーのあり方」を決める制度の一つである裁判員制度における評議で活かすことは望まれることではあるのですが,「コミュニティーのことを決めていく力を身につける」ことは「法教育」の目的ではなく,「法教育を受けた市民が幸福になる」目的達成のために必要とされる手段というべきであるので,「裁判員制度」での評議に堪える力を付けることは,法教育の結果に過ぎず,目的ではないはずです。また,そもそも「コミュニティーのあり方」として裁判員制度以外の選択もありうるわけですから(誤解がないように申し上げると,私は裁判員制度については基本的に賛成の立場をとっています),裁判員制度の有無と法教育の必要性との間には直接の論理的関係はないはずであるとも思います。
 このように,私としては,「法教育」あくまでも,それを受けた者が究極的に幸福になるために行われるためのものであって,公的な一制度を支える手段として施される類のものではないと考えているので,「「裁判員制度」での評議に堪える市民を養成するために,法教育が不可欠である。」といった,裁判員制度のために法教育が必要であるという趣旨の論調には抵抗を感じるのです。
 「法教育」の結果として,国民が刑事裁判を貫く原理を正しく理解するようになり,裁判員制度が正しく機能するようになることは望ましいあり方であると思いますが,「裁判員制度」を正しく機能させるために,現在の国民のスキルでは足りないので,「法教育」による啓蒙が必要であるという議論は目的と手段を見誤った議論であり,国民を愚民視するものですらあると思っています。
(以下次号)