わたしと司法
シリーズ112

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わたしと司法 シリーズ112

「わたしと司法」は,各界で活躍する著名人に「司法」について語ってもらおうというインタビュー記事で,関弁連が発行している広報紙「関弁連だより」のシリーズです。

歌手・女優
安倍里葎子さん
と き 平成23年9月28日
ところ 東京都内
インタビュアー 会報広報委員会委員長 中尾隆宏

 今回の「わたし」は歌手,女優としてご活躍の安倍里葎子さんです。
 北海道のご出身,1970年8月に「愛のきずな」でレコードデビューされ,ミリオンセラーのヒットとなりレコード大賞新人賞を受賞。平成22年に歌手生活40周年を迎えられました。作曲はデビューのきっかけを作られた平尾昌晃さんです。
 この間,「デュエットの女王」とも呼ばれておられます。
 現在,東日本大震災被災地の慰問のため,各地を回るお忙しい毎日の中,時間を下さいました。
 お話をお伺いする中で,ちょっと意外なデビューまでの経緯もお話いただけました。

○ 歌手デビュー40周年を迎えられ,記念曲「愛の命日」(作曲は平尾昌晃さん)も発表されました。誠におめでとうございます。
安倍さん  ありがとうございます。
○ 本日の服装(喪服を連想させる黒のお洋服でいらっしゃいました。)は記念曲をイメージしてのものとお伺いしましたが。
安倍さん  はい。曲が「愛の命日」ですから,平尾先生のご意向で,なるべく取材の時には喪服でいなさいと言われました。
○ デビュー曲「愛のきずな」は大変ヒットした曲でしたよね。
安倍さん  はい。おかげさまでレコードが100万枚以上の売上げとなりました。 
○ 今,改めてこの曲の歌詞を見ますと,かなり大人の女性が歌うような内容ですよね。デビュー当時の安倍さんにとっては,何か違和感のようなものはありませんでしたか。
安倍さん  なるほどそのように言われてみればそうですね。そのように仰っていただいた方ははじめてかもしれません。デビュー当時はそのような意識は全くありませんでした。というより,レコードを買ってくださった方には誠に申し訳ない言い方なのかもしれませんが,歌詞の内容をしっかりとは把握しないまま歌っていたのかもしれません。なにしろ,デビューまでが慌ただしかったんです。昭和45年の3月に北海道から上京してきて,6月にはレコーディングして,8月1日にデビューでした。あれよ,あれよという間に幸運が舞い込んできた,という感じでしたから,いろんなことを考えている余裕はなかったですね。ですから,その当時は歌詞の中の女性をイメージして,というような感じで歌っていたのではなかったと思います。作曲家の先生,プロダクションの方から仰って頂いたことを聞いて,その通りにしようとすることで精一杯でした。
○ その後,歌が自分の中で変わっていったということはありますか。
安倍さん  歌手の方々とじっくり話し合ったわけではないんですけど,よく「デビュー曲というのは難しい。」と言われます。聞いてくださっている皆さんの中では,デビュー曲のイメージはその当時のままなんですね。でも,実際は歌手も経験を重ねて,人間的にも成長して,デビュー当時のままではないです。ですからデビュー当時のままには歌えない,という難しさがありますね。
○ デビュー曲は非常に大人っぽい曲ですね。デビュー当時には相当の訓練やご苦労をされたのではないかと思いますが,いかがだったのですか。
安倍さん  そうでもなかったんですよ。私にはいわゆる下積み,という時代がなかったんです。北海道にいたとき,私は小学校5年生の時からクラッシックバレエを習っておりまして,末はバレエの先生になるのが夢でした。中学生の頃から,バレエの友達と「高校生になったらバレエスクールに行って基礎を固めようね。」なんて話していました。でも祖母から「もう一つぐらい趣味を持ちなさい。」と言われまして,祖母の知り合いの方の所へ歌のレッスンに行くようになりました。そして,その方がお店をやっている,ということで,そこでウェイトレスをしながら歌うようになりました。そこでも2年は歌っていなかったんです。ところが,そこで歌っているところを平尾先生に聴いて頂いて,「デビューしないか。」というお声をかけて頂きました。それが昭和44年,つまりデビューの前の年です。ですから,いわゆる下積みという時代がないんです。芸能界でデビューできるなんてそもそも思っていませんでしたからね(笑)。なにしろ夢はバレエの先生でしたから。
○ 芸能界デビューを小さい頃から夢見ておられたわけではなかったんですね。
安倍さん  違います。ある時,バレエの先生にバレエの世界で行くのか,歌の世界で行くのか決めなさいと,決断を迫られました。その時,歌の先生にご相談しましたら,バレエの世界では,60になっても踊り続けられる,というのはなかなかできないけれど,歌ならば,ちゃんとやっていれば60になっても70になっても続けられるよ,それなら,歌の方が良いんじゃないの,と言われました。丁度,私達のバレエの公演に向けた練習をしていた時期であったのですが,なかなかうまく踊れなかったこともあって,歌の世界をとるようになりました。前は8割方バレエの世界だったんですが,その比率が段々変わっていったという具合でした。
○ バレエの訓練は,言わば肉体を刃物で研ぐみたいなものですよね。そのような世界にいると,お考えになることも,大人びたことになったのかな,とも思ったのですが。
安倍さん  それほどでもなかったんですよ。バレエの世界でも,踊るより教えることがすごく上手,という人がいるんですね。私が中学生の頃に,漠然と「踊るより教えた方がいいのかな。」と考えたという感じでした。
○ それにしても,バレエに真剣に取り組んでおられたお姿が浮かびます。今は,芸能界でも,あるいはほかの世界でも,かなり年齢層の若い方の活躍が多くマスコミに取り上げられますよね。一方,私たち弁護士のご依頼者の中には,会社からリストラされてしまったり,契約を切られてしまったり,という方が沢山来られます。何かの途を選んだ時には相当の覚悟をもって望まなくてはならないと思われるのですが。
安倍さん  バレエでもそうですが,やはりひとつの事を「極めよう」という意識は大切だと思うんです。バレエだと,一日レッスンを休めば取り戻すのに一週間かかる,と言われました。私の場合歌を取ったわけですが,ひとつのことに取り組んだら,それを突き詰めていくことは大事ですよね。おもしろそうだからちょっとやってみよう,ということだけで,辛くなったらすぐやめてしまう,というのではいけないと思いますし,また,大人達もそれを許して使い捨てにしてしまうようではいけないと思います。私の場合,バレエを習わせてくれる条件が,「学校を休んでもバレエを休まない。」ということでした。もちろん学校も休みませんでしたけど,バレエも本当に休みませんでした。あと,私の場合,祖母が花柳界におりましたから,最低限ですけれど,ひととおりの礼儀,躾をしてもらえました。これも大きかったと思います。
○ デビューの時に,お祖母様は喜んでくださいましたか。
安倍さん  ところが,祖母は東京へ行くことには絶対反対でした。母は,寂しいけれどやりたいことはやらせてあげたい,と言ってくれましたが,祖母は「東京なんてとんでもない。」という感じでした。
○ お祖母様の説得は大変だったのですか。
安倍さん  それが祖母も単純なんですよ。昭和45年の1月に平尾先生とお世話になる予定のプロダクションの方が北海道まで来て下さって,私の歌を聴いて頂いて,その後一緒にお食事をするということになったのですが,その時,来てくださっていたプロダクションの部長さんが北海道の岩見沢の出身だったんですよ。そうしたら,祖母はいきなり「北海道出身の人に,悪い人はいない。」なんて言い出して,東京へ行くことを賛成してくれました。今まで反対していたのが何だったんだろう,って感じでした(笑)。
○ お母様とは今でも仲良し親子とお伺いしましたが,お母様はどんな方ですか。
安倍さん  口では「もうおにぎりは作りたくない。」と言いながら私のために作ってくれています(笑)。親孝行をしたいですね。
○ 東日本大震災の被災者の避難所になっていた赤坂プリンスホテルで,平成22年10月にデビュー40周年のリサイタルをされたのでしたね。
安倍さん  デビューした昭和45年の8月15日にホテルのプールでボディーペインティング大会をしたんですね。「芽が出るように」という思いを込めて「目」のペインティングをしてもらったんです。その時の思い出の場所だったので,40周年の記念リサイタルもさせて頂きました。45周年記念もやろう,と意気込んでます(笑)。そのためには健康ですね。来年の2月18日にイリュージョン(マジック)を入れた催しをする予定です。その時に小さな箱に入ったりしなければならないので,そのためにも体を整えているところです。
○ 今後の益々のご活躍をお祈りしております。本日はどうもありがとうございました。

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