○ 有森さんは,2回もオリンピックのマラソンでメダルをとっていらっしゃいますが,元々はバスケ部で,陸上部に入られたのは高校からとお聞きしました。 |
有森さん |
小学校3年生のときから,父がコーチをしていたポートボールをやっていて,その経験から,中学校でバスケット部へ入りました。でも,自分で,私はチームプレーには向いていない,自分の力が発揮できていない,と感じるようになっていました。そんなときに,運動会の800mに誰も出ないというので,出場してみたら優勝して,個人種目はいけると感じました。これを活かして,高校で陸上部に入りました。 |
○ では,子どもの頃から,走るのが大好きだったってことではなかったんですか。 |
有森さん |
大好きということはなかったです(笑)。 |
○ 当時から,陸上の素質はあったのでしょうか。 |
有森さん |
いえ,スポーツテストが悪くないという程度の成績でしたので,特に周りより運動神経が優れていたとか,そういうことはなかったと思います。でも,身体を動かすのは好きでしたし,それに負けず嫌いでしたね。ただ,肺活量は多かったです。 |
○ ということは,長距離に向いていたんですね。 |
有森さん |
いえ,実は,肺活量と長距離は関係ないんですよ。持久力に大切なのは,脈拍です。でも,私の場合,脈拍はそれほど多くないんです。1分間に45くらいでした。 |
○ 脈拍というのは,トレーニングで変わるものですか。 |
有森さん |
トレーニングで変わりますね。持久力は鍛えれば伸びるということです。 |
○ 高校の時から日本記録を積み重ねてきたというわけではなかったようですが,プロへ転向するきっかけはどのようなものでしょうか。 |
有森さん |
大学4年のとき教育実習で母校へ行きまして,練習をしなかったにもかかわらず,記録会で3000mに出場したら,自己記録2位で優勝したんです。そのときに,きちんと練習して監督が付けば,どれくらいのタイムが出るんだろう,もう一回チャンスが欲しいと感じました。ということで,教育実習が終わった後から,陸上が出来る就職先を探しました。 |
○ それで,1989年に名門のリクルートへ入られたんですね。 |
有森さん |
はい。当時,実業団チームとしてはまだ新しいリクルートが条件にあてはまると思いました。あのときは,いわゆるリクルート事件のまっただ中で,リクルートは誰も入りたがらないのでは?というイメージがあった会社でしたから。入社当時,私には実績はありませんでしたが,やる気は十分ありました。内定をいただいたときは,ピンチをチャンスに変えようと思いました。
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○ リクルートでプロ選手としてのキャリアを始められたわけですが,プロの練習は大変だったのではないでしょうか。今日は走りたくないと思うことはありませんでしたか。 |
有森さん |
練習量は多くて大変でしたが,今日は走りたくないなんて言っていられなかったです。やっと会社に入れてもらったという感覚でしたから,きついのは当たり前で,とにかく必死でした。特に,私の場合,高校までは無名の選手でしたから,入った当初は相手にされていなくて,その悔しさから,意地になって頑張っていました。 |
○ リクルートの陸上部では,長距離から始められたんですか。 |
有森さん |
そうです。私の場合,800mなんて中学生より遅いと言われていました。でも,マラソンは,短距離や中距離と比べればスピートが必要ないわけです。そして丁度その頃,世代交代でマラソンの選手の引退が多かったので,やればなんとかできる競技なのではと思い,長距離を始めました。 |
○ 初めてフルマラソンを走られたのは,練習を始めてからどれくらいたってからでしたか。 |
有森さん |
初めて大会に出場したのは90年1月の大阪国際女子マラソンで,入社から4か月後のことです。 |
○ それから銀メダルを獲られたバルセロナオリンピックまでは,わずか2年の期間だったんですね。 |
有森さん |
初マラソンを走った翌年に当時の日本記録を出して,さらにその翌年の92年にオリンピックで銀メダルを取りました。 |
○ それは素質がすごかったという感じですが。 |
有森さん |
私の場合,良い意味で不器用なんです。当時は切羽詰まった状況でしたので,とにかくがむしゃらに頑張っていました。 |
○ 1992年でのバルセロナオリンピックに出場される時,プレッシャーも大きかったと思いますが,メダルを取る自信はありましたか。 |
有森さん |
メダルは意識していなかったですね。私は,持ちタイムがオリンピック出場選手の中で10番手でしたし,日本代表に選ばれるのも3番目で最後の1人というポジションでしたので,プレッシャーは特になかったです。レース前,小出監督からも,「良くて7位くらいじゃないか」と言われてました。 |
○ 本番に強いということですよね。レース前に緊張されたりしますか。 |
有森さん |
良い感じで緊張もしますが,でもそれ以上に,練習を緊張してやっているんですよね。練習でどれだけ自分を苦しめるか,その先にレースがあります。 |
○ プロの練習はそれだけ厳しいんですね。 |
有森さん |
練習に集中して,全生活をそこに向けるわけです。仕事だから当たり前のこととしてやっていました。 |
○ バルセロナオリンピックでのレースですが,レース終盤のデッドヒートの最中に,飲料水のボトルを投げずに,一歩下がって足下にボトルを置かれたのが印象的でした。 |
有森さん |
あれは賛否両論で,あんなことしたから金メダルを取れなかったとも言われました。でも,自分ではそれが原因とは思っていません。あれは自然な反応だったんです。というのも,30数キロ地点で一回ボトルを投げたらすごい音がして私自身驚いたのです。それに,応援してくれる人も近くて,投げたら危ないと思いましたので,足下に置きました。 |
○ オリンピックで銀メダルを獲られて良いことばかりだったでしょうか。 |
有森さん |
過去には,円谷幸吉さんのように,メダルをとったことで不運な競技人生を送った方もいらっしゃいました(*円谷幸吉さんは,東京オリンピックのマラソンで銅メダルを獲得するも,それから4年後に自ら命を絶たれました。)。でも,私の場合は,あくまで自分のために走ったレースでしたし,日本代表ということを広くアピールできた時代でしたので,メダルをとった後は,もっと練習して環境を整えられると漠然と期待していました。でも実際には,そういうことにならなかったんです。当時,周りと噛み合わないところもあり,絶望して,輝くどころか曇る一方でした。メダルから3年間は悩みました。 |
○ バルセロナの後,すぐ次のオリンピックを,とは考えなかったですか。 |
有森さん |
考えなかったですね。それよりも,単純にもっと強くなりたいと思っていました。次のオリンピックをと思えたのは,両足を手術した後にレースに出て,いけるという実感を持ったときですね。もっと具体的にオリンピックが見えたのは,アトランタオリンピックの1年前くらいでした。復活の北海道マラソンで優勝して,気持ちが入りました。 |
○ アトランタオリンピックには,出たいと思われていたのですか。 |
有森さん |
出たいではなく,出なきゃいけないと思っていました。バルセロナで銀メダルを取ってから何年も経っていて,今走れない状況の自分が声を上げても,誰も聞いてくれないわけです。自分の疑問を口にしていい人間になるには,もう一回オリンピックに出て,何色でもいいからメダルを取るという手段しかないと思いました。メダルを取りたいというwantではなく,取らなければいけないというmustでした。そういう中で目指したのが,アトランタ大会です。 |
○ アトランタオリンピック出場が決まったときは,どの様なお気持ちだったのでしょうか。 |
有森さん |
こんな状況でオリンピックに出るのは二度と嫌だと思いました。出たいと思って出る方がよっぽど良いです。ただ,あの時間がなければ良かったのかということでもないです。あって良かった時間ですけど,二度といいです。 |
○ 1996年のアトランタオリンピックで銅メダルを取られたときに,「自分で自分をほめたいと思います」という有名な台詞をおっしゃいましたが,あれはレース前から言おうと決めていた言葉ですか。 |
有森さん |
あの言葉は,事前に決めていたわけではなくて,インタビューで話している最中に出てきた言葉なんです。「なんでもっと頑張れなかったんだろうと思うレースはしたくなかったし」,「今回はそうは思ってないし」と言って,振り返ると自己採点でパーフェクトだと思って,「初めて自分で自分をほめたいと思います」と締めくくったんです。2つの前置きがなかったら出てこなかった言葉です。 |
○ アトランタで銅メダルを取られて,一段落,だいぶすっきりされましたか。 |
有森さん |
ほっとしました。もうこれで終わっていいと思いました。静かな喜び,安堵がありました。 |
○ バルセロナとアトランタでは,ゴールのポーズも違いましたね。 |
有森さん |
バルセロナでは,手を挙げてゴールしました。「やった!」という感じです。アトランタでは,小さくガッツポーズです。「もういい」という感じでした。当時のメンタルの違いが出ていますね。 |
○ アトランタから引退まで10年程ありましたが,そこで再度オリンピックに出たいとは思いませんでしたか。 |
有森さん |
シドニーやアテネに向けた調整はしていましたが,オリンピックはレースのうちの一つですから,オリンピックだけというこだわりは特にありませんでした。 |
○ その頃は,走るのが好きだという思いはありましたか。 |
有森さん |
私にとっては,マラソンは好き嫌いを考えるものではないのです。「好きだからできたんでしょう」とよく言われますが,好きだからできることではないです。仕事だから当たり前にやる,という対象でした。もちろん嫌ではなかったです。嫌なら辞めないといけない。私の場合,何かを必死に頑張って結果を作っていくその行為自体が好きで,それが仕事になっていれば嬉しいと思っていました。 |
○ 2007年の東京マラソンで引退されたときの想いについて教えてください。 |
有森さん |
気持ちがとても楽になりました。やることはやったという想いです。このとき,好き嫌いでランニングをやらなくて良かったなと思いました。好きだと辞められないわけです。でも私の場合,引退の次の日から朝練習を辞めました(笑)。 |
○ 振り返って,最も印象に残っているレースは何ですか。 |
有森さん |
難しいですね。(しばらく置いて)転機になった2つのレースですね。一つは,バルセロナの後,1995年の北海道マラソンです。復活を決めたレース。もう一つは,1999年の第103回ボストンマラソンです。自己ベストを出したレースですね。トータルで33位,女子で3位でした。 |
○ 今はもうトレーニングはされてないんですか。 |
有森さん |
プライベートでは,見事にしないです。ちょっと階段降りることが運動って感じですね(笑)。後は,ウォーキングを兼ねて,自宅から表参道のカフェまで歩いたり。スポーツは,仕事として本気でやってしまって,楽しく健康のためにはできないんです。 |
○ ご趣味は何かありますか。 |
有森さん |
喫茶店に行くとか,ギャラリーやミュージアムへもの作りを見に行くとか。先日も,国立新美術館にフランスのタペストリーを見に行ったりしていました。私は一点ものが好きなんですが,考えてみると,アスリートのパフォーマンスも,その瞬間にしか見えない芸術のようなものだとすると,究極の一点ものと言えるかもしれませんね(笑)。 |
○ 最後の質問ですが,弁護士の印象はいかがでしょうか。 |
有森さん |
弁護士は,ともすれば固いイメージがありますが,私自身は固いイメージは持っていないです。私の周りにいる弁護士とは,結構親しくしてもらっています。 |
○ 有森さんにとって,弁護士はどのような存在ですか。 |
有森さん |
私にとっては,弁護士は,とても心の支えになる存在です。でも,弁護士という肩書きよりも,結局は人柄がどうかというのが大事ですね。 |
○ 本日はありがとうございました。 |