従前「わたしと司法」と題しインタビュー記事を掲載しておりましたが、このたび司法の枠にとらわれず、様々な分野で活躍される方の人となり、お考え等を伺うために、会報広報委員会が色々な場所へ出向くという新企画「関弁連がゆく」を始めることとなりました。
キックボクサー
天田ヒロミさん
今回の「わたし」はキックボクサーの天田ヒロミさんです。天田さんは1973年,群馬県群馬郡群馬町(現高崎市)出身の38歳。高校1年まではやんちゃな青春時代を送りましたが,ボクシングとの出会いで人生が一変し,高校3年次には国体(少年の部)に優勝し,91年に推薦入学で中央大学法学部に進学しました。大学でもボクシング部に所属し,最重量級ライトミドル級(71kg以下)で活躍し,国体(成年の部)優勝も成し遂げました。97年の大学卒業後は,キックボクシングに転向し,当時隆盛だった立ち技格闘技のK-1の正道会館の内弟子になりました。入門後は体重が軽かったこともあり,なかなか結果が出ませんでしたが,徐々に頭角を現し,2004年には「K‐1 JAPAN GP 2004」で優勝し,本選にも出場されました。前に出続ける攻撃的なファイトスタイルと飾らない性格でファンの心をつかみ,「ジャパンの特攻隊長」のニックネームで親しまれました。185cm,105kgの恵まれた体格を活かし,現在も貴重なヘビー級のキックボクサーとして活躍をされており,名古屋を主戦場にするHEATのヘビー級チャンピオンに君臨しています。
―天田さんこんにちは。本日は宜しくお願い致します。
天田さん こちらこそ宜しくお願い致します。
―天田さんのご経歴を拝見しておりますと,小学校,中学校では野球部に所属して,プロを目指していたとの記載がある反面,高校まではやんちゃをしていたというか,端的に申し上げて暴走族に入っていたとの記載が多くありますね。
天田さん いやあ,そうなんです。野球も一生懸命やっていたのですが,仲間7人が全員暴走族に入ったこともあって,私もやってみるかと思って入ったんです。どんなことでもとことんやるという性格だったもので(笑)。だから,朝練やって,夕練やって,ごはん食べてちょっと寝てから,出発していました。
―それで,せっかく野球の推薦で高校入学が決まっていたのに,取りやめになって,受験して前橋育英高校に入ったんですね。よく間に合いましたね。
天田さん もう半年くらい必死に勉強しましたからね。なんとか試験もクリヤーできました。
―高校ではすぐボクシング部ですか。
天田さん いえ,最初はゴルフ部に入りました。アルバイトでキャディができるからと言われたので。だけどゴルフ部にいたときに,ちょっとやらかしまして,2回謹慎になってしまって退部したのです。そのとき,ボクシング部の顧問の先生が,「お前,ケンカが強いなら,ボクシングをやろう。路上で人殴って倒したら犯罪だが,ボクシングなら褒められるんだぞ。」って誘ってくれて,ついその気になりました。
―この手の話に必ず出てくる誘い文句ですね(笑)。それじゃ,ボクシングは高2からですか。あれ? だけど高2ではもうインターハイに出てますね。ずいぶん短くないですか。
天田さん 3月に入部して6月に予選だったんですが,県で優勝したんです。ライトミドル級(71kg以下)は,選手が殆どいないんで県で勝つのは簡単なんです。だけど,その後すぐに関東大会でも優勝してますから,やっぱり向いてたんですかね。
―当時のスタイルは,アマチュアらしいアウトボクシングですか。長身ですし,遠くからジャブ打つ感じで。
天田さん 確かに当時68kgでガリガリだったのですが,幸いパンチ力があったので,逃げずにどんどん前に出るスタイルでした。ライトミドル級の選手はスピードがない人が多いので,狙って打てば避けられずに当たるんですよ。で,当たれば倒れますし。当時は,「救急車を呼ぶ男」と言われていました。
―それで翌高校3年次に早くも国体優勝し,ボクシングで中央大学法学部に入ったんですね。中大はスポーツ学科がないから,スポーツ選手も法学部に在籍するんですよね。
天田さん そうですよ。大相撲の出島関も同級生です。4年のときは箱根駅伝も優勝してますし,私の年代は法学部に優秀なスポーツ選手が多かったですね。
―司法試験などは考えなかったですか。
天田さん そりゃもう全然(笑)。やっぱり勉強についていくのが大変で,卒業まで二留してしまいました。134単位のうち100単位残っていたのですが,現在は弁護士をしている某先生(女性)に勉強を教わって,毎日勉強して,2年間フル単で一気に卒業できました。とにかく授業に出て教授と仲良くなることが大事なんだ,ということが身に染みて分かりました(笑)。
―4年次にはボクシング部の主将を務め,国体も優勝し,アトランタ五輪のアジア予選は残念ながら敗退でしたが,充実した大学生活を送られました。就職も決まってたんですか。
天田さん 地元の群馬町に戻って町役場で働こうと思っていました。だけど,卒業間際になって,K-1の石井館長が,「君ならできる。大阪に来て入門しなさい。」と言ってくれて,練習に行ったら,アンディ・フグ選手と合宿を組ませてくれたんです。それで一緒に練習したら,「あ,こんなもんか。大したことないな。これならオレもできるかも。」と思ってキックボクシングに賭けてみようと思ったのです。まあ,フグ選手にはアバラ折られたんですけどね。
―「こんなもんか」って,エライやられてるじゃないですか(笑)。当時はK―1人気が盛り上がり始めたころでしたが,他に日本選手はいましたでしょうか。
天田さん 2000年前後というと,佐竹さんはもうだいぶ落ちてきた頃で,後に続く武蔵も怪我したりして,ちょうどおいしいタイミングでしたね。2004年には日本予選で優勝して本戦にコマを進めました。
―「ジャパンの特攻隊長」と言われていた頃ですね。対戦選手を見ると,レイ・セフォーとか,マイク・ベルナルドなど本当の第一線級の選手と戦っています。あんな猛獣みたいな選手によく立ち向かっていけますね。
天田さん いやいや,同じ人間ですから。みなさんが思っているような怪物じゃないですよ。そりゃ,いいのを貰ったら倒れますが,日本人は適応力が高いですから,相手の力をうまく逃がしながら戦えます。もっとも,ホーストやアーツは頭がいいので,なかなか難しいですが。
―だけど,その後,K―1もパッとしませんね。
天田さん 石井館長が脱税で捕まっちゃいましたからね。そのあとは,プロレスみたいなモンスター路線になってしまって,結局ファン離れを招いてしまいました。残念ですが,今年の年末に格闘イベントが開催されるかも分かりません。格闘技の本場はヨーロッパに移ってしまいましたね。
―天田さんは現在はフリーのキックボクサーということになっているのですか。
天田さん そうですね。決まった所属団体はありません。ですので,逆にどの団体の選手とも自由に試合ができるわけで,年5~6試合は行っています。普通は2~3試合ではないでしょうか。
―でも年5~6試合だと,ファイトマネーだけで生活するというのは難しいのではないでしょうか。
天田さん それはそうです。選手はみな兼業ですよ。それにファイトマネーも半分はチケットですから,それを自分で売るんです。私の場合には応援してくれる方が多いので,さばけていますが,苦労している選手も多いです。
―そうすると普段の生活は,トレーニングの合間に仕事ですか。
天田さん そうですね。朝トレーニングして,昼間働いて,夜またトレーニングです。私の場合は所属のジムがないので,「今日はどこに誰がいるよ」という情報を貰ったら,携帯で連絡取り合って,相手のいるジムまで出かけて一緒に練習することが多いです。ヘビー級は選手が少ないので,動ける方が出向いて練習するんです。相手が試合前なら,練習後にミットもってあげたりしてね。お互い様ですね。
―なんかサークル活動みたいですね。
天田さん いや,本当にそのとおりですよ。楽しくやっています。楽しくないと続きませんしね。2007年に東京に来てからそうやって人脈が広がって,ずいぶん練習しやすくなりました。東京に来てからは,まだ1回しか負けていないはずです。
―対戦相手や,条件,ウェイトなんかは,事務所がマネジメントしてくれるのですか。
天田さん ですから所属団体がないので,自分でやるんです。この携帯で(笑)。
―ええ? 自分でやるんですか。
天田さん そう,だから私にとってこの携帯はすごく大事なんですよ(笑)。もちろん,向こうの団体から声をかけてくれる場合も多いのですが,自分で交渉して,条件を決めて,出向いて契約するんです。
―現在ヘビー級チャンピオンになっている名古屋のHEATもそうですか。
天田さん そうです,このときは,出場予定だった富平選手が怪我で出られなくなって,急に私に連絡があって,かわりに出たらチャンピオンになれたんです。ラッキーでした。でも今年3月に復帰した富平選手と対戦して勝ちましたよ。
―HEATとしては,さぞ富平選手を推したかったんでしょうねえ。
天田さん ははは,まあ,勝負の世界ですからね。仕方ないですね。
―今年で38におなりですが,今後,一線を引いた後のことはお考えでしょうか。後進の育成とか。
天田さん いや,まだスタミナは伸びていますし,パワーもスピードも衰えているとは考えていません。あと5年くらいはできるのではないでしょうか。子供にも,まだまだカッコいいところを見せてやりたいですね。
―現役のチャンピオンですものね。将来のことはまだ考える時期ではないんですね。12月のHEATのタイトルマッチも頑張ってください。期待しております。本日はありがとうございました。