従前「わたしと司法」と題しインタビュー記事を掲載しておりましたが、このたび司法の枠にとらわれず、様々な分野で活躍される方の人となり、お考え等を伺うために、会報広報委員会が色々な場所へ出向くという新企画「関弁連がゆく」を始めることとなりました。
タレント
風見しんごさん
今回の「わたし」は,タレントの風見しんごさんです。
風見さんは,広島市出身で1982年,19歳のときに「欽ちゃんの週刊欽曜日」でタレントとして,翌年「僕笑っちゃいます」で歌手として,それぞれデビューしました。1984年12月に出した「涙のtake a chance」は当時最先端だったブレイクダンスを大胆に取り入れ,現在もブレイクダンスの先駆者としてプロのダンサーなどから多大なリスペクトを受けています。また,2007年1月17日には愛する長女(当時10歳)を交通事故で亡くすというつらい体験もされており,以後交通事故の撲滅に向けての講演などの活動も行うようになりました。2008年1月には亡き長女への想いを綴った「えみるの赤いランドセル―亡き娘との恩愛の記」を出版,デビュー30周年の今年には27年ぶりとなる新曲「ゆるら」をリリースされ,ますます精力的にご活躍されています。
―デビュー30周年,おめでとうございます。ひょんなことからデビューされたと伺っていますが。
風見さん 広島から東京の大学に入って上京したときに,一緒に遊んだり世話をしてくれた先輩が哀川翔さんだったんです。そのころ哀川さんが周りにいた若い人と一緒に原宿のホコ天で路上パフォーマンスをやり始めましたので,そこに参加させてもらいました。後でその中から「一世風靡」がデビューするわけですが,僕がいたのはその前です。スーツを作るお金もなくて普通の服を着てました(笑)。
あるときTBSのディレクターさんが見に来て下さっていて,萩本欽一さんの新番組を作るんだけど,ということで声がかかりました。萩本さんは有名人を使わず素人を一から育てるという方針だったので,原宿あたりにいないかなと探しに来ていたわけです。
本当は自分ではなく野々村真君が本命だったんです。真君一人じゃ寂しいからということで,僕と武野功雄さんと3人組という形で出そうかと。そしたら,なぜだか番組の構成作家の方がオーディションを見て,僕だけ残りなさいと言うことになったんです。野々村君はそのとき「笑っていいとも」に出ることが決まっていたので,それもあったのかもしれないですね。武野さんも後で「欽どん」の「良い先生,悪い先生,普通の先生」というコーナーで「悪い先生」役で出ることになりました。
―欽ちゃんはオーディションをご覧になったのですか。
風見さん いいえ。僕が残った後に,隣のスタジオに萩本さんがいらっしゃるのでご挨拶に行ってらっしゃいといわれたので,行きました。うれしさ半分,パニック半分で,とにかく「こんにちは!」と元気よく挨拶すると,萩本さんは振り向きざまに一言「元気がいいなあ。合格だよ」と(笑)。でもその後「お茶をいれてごらん」といわれて,萩本さんに急須でお茶を入れたんです。そうしたら萩本さんは「最悪だな」と(笑)。それで「あの『こんにちは』が良かったんだよ。ああいう『こんにちは』が番組に欲しいんだ。じゃあ,もう一回『こんにちは』をやってごらん」と言われて,もう一度やってみたら「もう違う。もうさっきの『こんにちは』じゃない。あわよくば有名人になってお金儲けをしようとしている『こんにちは』になっちゃった。」と。それから何度も何度も『こんにちは』をやりなさいと言われて,結局1時間半以上も「こんにちは」をやりましたね(笑)。スタジオを出て駅の方まで行って戻ってきてからもう一度やってみなさいとか・・・。
―萩本さんには違いが分かるんでしょうか。
風見さん あれから数年経って萩本さんに「あのときの『こんにちは』は何が違ったんですか」と訊いたんです。そしたら,「みんな同じだよ。あれはいつくじけるか,こいつはどれだけ同じことの繰り返しでも,いやな顔をせずにできるかってのを試したんだ。『いやだなあ』って顔したときが終わりなんだよ」って。それから「僕がお前に50回やらせたのは,僕が50回でもダメ出しをしておけば,他の仕事に行ったときに監督や演出家から20回ダメ出しされても平気だろ」って。
―すごいお話ですね。でも風見さんはその試練を乗り越えられたのですね。
風見さん 当時,僕は芸能界のやり方やしきたりを全く知らなかったから良かったんだと思いますね。もう「何が違うんだろう」って思いながらも素直にやるしかなくて。
欽ちゃんファミリーの鉄則というのがあって,萩本さんには「訊いちゃだめ」なんですね。「どこがダメなんですか?」って訊くと萩本さんは「訊いちゃだめ。」って言うんです。芸っていうのは訊いて教わるものじゃなくて,自分で見つけるものだからって。
―デビューしてからはお茶の間の人気者となりましたね。でも,僕らにとって衝撃的だったのは「涙のtake a chance」でした。激しいブレイクダンスを踊りながら歌うパフォーマンスは,最近になってものすごく評価されていますよね。
風見さん ここ1~2年すごくそういう声を頂きました。当時テレビを見ながら僕の曲を踊って下さったような小学生の男の子たちが,今では40歳くらいになってテレビ局のディレクターさんとかプロデューサーさんになっていて,すごく声をかけて下さるんですよ。
―あのパフォーマンスは映画を観て,ご自身で考えられたとか。
風見さん 「フラッシュダンス」という映画のワンシーンで,子ども達がブレイクダンスを踊っているシーンがちらっと出てくるんです。それを見たときに「これをやらなきゃ!」と思いました。でも,まだ日本ではブレイクダンスやヒップホップなんて一部の人しか知らなくて,誰も教えてくれる人がいなかったんですね。それでニューヨークに行ったんですが,そこでもレッスンをしてくれる人や場所もなかった。そこでストリートで実際に段ボールを敷いて踊っている人を見て「どうやって動いてるんだ?」って習うような感じでね。それから日本に戻って現地で購入したブレイクダンスのビデオを買って,それこそを何回も何回も「スロー再生」で見て研究しました。
―それであのクオリティはすごいです。そういうアイドル時代を経て転機が訪れました。
風見さん はい。いつまでも青年でいられるわけじゃなし,僕の場合もアイドルというポジションの終わりが来ました。ちょうどデビューから5~6年経ったころです。
そういう時期が来ることは分かっていたのですが,実際にそうなってみると,客席からの反応も見に来て下さっているお客さんの世代もアイドルの時とは変わってきて,これからどうしていいのか分からないし,すごく不安になるんですよ。このまま終わってしまうのかなあと。そのときにたまたま実家の母が脳梗塞で倒れてしまいました。一命はとりとめましたが,一生介護が必要な体になってしまったんです。そのときにもう芸能界はやめて実家に帰ろうと思ったことがありました。
そこで,萩本さんのところに「やめて広島に帰ります」と挨拶に行きました。そしたら,萩本さんが「ダメだ。お前は辞めちゃだめだ。俺が辞めさせない」って言って下さったんです。「お母さんが病院のベッドでがんばっているときに一番薬になるのはお前がテレビに出ていることじゃないのか」って。
それで思い直して,脇役でも何でも必要とされているところに行って必要なことをやればいいんだと仕事を頂くようになりました。それからは,司会,パネラー,レポーター,芝居と何でもやりました。
後に母が亡くなってから部屋で遺品を整理していたら,僕が脇役などでほんの少しでも出ている番組でも全部ビデオに撮って残していたものがありました。そのときに萩本さんの言うとおりだったんだなあと思いました。
―そうですか。それからこれは避けて通れないお話なのですが,2007年1月にお嬢様を交通事故で亡くされたときは大きく報道されました。
風見さん そうですね。前の年に福岡での事故(※注)があり,交通事故に対する世間の目が厳しくなっている時期でした。
事故の朝は自分も家にいて救急車も来る前に現場にかけつけたんです。トラックの下にまだ娘がいる状態でした。交通事故も死亡するくらいの事故になると,身体的な状態が見ていられないほどひどい。「なんでうちの娘が。しかもなんでこの形なんだ」と思いました。後から人に聞くと,僕は持ち上がるはずがないのに一人でトラックを持ち上げようとしていたらしいです。今でも毎晩,寝るときに目をつぶると,そのときの情景が必ず目に浮かびます。今でも,娘はこの世界で最後にみた景色はどんなだったんだろう。本当に痛くなかったかなあ,怖くなかったかなあと心配になります。
―その後は交通事故を無くすための活動も積極的になさっていますね。
風見さん こういう経験は誰にもして欲しくないし,こういう形では弁護士さんにお世話にならないで欲しいと思うんです。よく年末に今年の交通事故の犠牲者は何人でしたという報道があるんですけど,実はその一人の被害者に対して,何十倍もそのことによって深い傷を負った人がいるんですよね。娘のときにも,小学校の友達まで「私があのときチャイムを鳴らして一緒に学校に行こうって行っていれば・・。」と言ってくれた。誰もが「あのときこうしていれば事故は起きなかったかもしれない」と悔しい想いをして傷ついているんです。やっぱり,改めて思うのは年齢の順番に死んでいくというのが当たり前でどれだけ幸せなことなのかと思います。
―今弁護士という話も出ましたが,裁判や弁護士の活動は風見さんの目からみていかがでしたか。いろいろと至らない点もあるかと思いますが。
風見さん 正直,怖いです。裁判とか。例えば,検察庁から茶封筒が届くだけで怖いです。○月○日に○○法廷でご長女の事故の裁判が行われますという連絡なんですけど,そういうのが来るだけでも怖い,気持ちがいいものじゃない。相手の弁護士さんからも手紙が来るし。こういう形で裁判に関わるのは一般の人には無理です。支えになる存在が弁護士さんだったですね。
―今年娘さんへの想いを歌った「ゆるら」がリリースされました。最初は別の曲のカップリング曲だったとか。
風見さん そうなんです。最初はデビュー30周年なので,洒落で50歳のオヤジが歌って踊るのはどうだと。「このおじさんバブルで止まっているぞ」という感じで(笑)。歌は洒落っぽいんですけれど,やるからには真剣にやろうと。それで1年以上前からダンスのレッスンも始めて,曲のプロデュースを秋元康さんにお願いして準備を始めたんです。
―その曲が「今さら Fall in love」ですね。こちらもすごくいい曲です。
風見さん 衣装まで作っていたんですよ(笑)。それで,この曲の昔で言えばB面の曲はどうするという話になって,秋元さんからデビュー30周年だしご自分で作ってみてはどうですか?と。もう,大作詞家に言われたら恐縮するしかないのですけど,せっかくなのでとにかく何十編も書きました。でも記念で1曲だけと言われたら,やっぱり長女への気持ちを書くしかないなと。家族もみな同じ気持ちでした。それでたくさん詩を書いて絞り込んで,その中から想いのこもったパートをつなげたり,集めたりその中からそぎ落としていく作業をして1曲にしたんです。
―「僕の涙が君のじゃまをしていませんか」というフレーズが素晴らしいです。同じ年頃の娘を持つ父親としては涙なしでは聴けません。
風見さん レコーディングの日が1月20日でちょうど長女の告別式の日から5年だったんですが,事故の当日と同じように雪もふってきて,それで覚悟が決まったんです。娘が背中を押してくれたというか「自信を持って行ってこい」と言ってくれたような気がしました。レコーディングも終わってから,秋元さんが「これは(風見さん面とB面を)逆にしましょう。風見さんの曲で行きましょう。」と仰って下さったんです。
―そうですか。できるだけ多くの人にこの素晴らしい曲「ゆるら」を聴いて欲しいですね。本日はどうもありがとうございました。これからもご活躍をお祈りしています。
風見さん ありがとうございました。
※注 2006年8月に福岡市内で会社員とその家族が乗っていた自動車が,飲酒運転の自動車に追突されて博多湾に転落し,3児が水死した事件