従前「わたしと司法」と題しインタビュー記事を掲載しておりましたが、このたび司法の枠にとらわれず、様々な分野で活躍される方の人となり、お考え等を伺うために、会報広報委員会が色々な場所へ出向くという新企画「関弁連がゆく」を始めることとなりました。
フリーアナウンサー
関谷 亜矢子さん
今回の「わたし」はフリーアナウンサーの関谷亜矢子さんです。
関谷さんは1964年東京都生まれ。1982から83年AFS留学生としてネブラスカ州ウェストサイド高校に1年留学されました。1988年国際基督教大学を卒業し,日本テレビ放送網にアナウンサーとして入社。スポーツ番組,情報番組を中心に出演し,リレハンメル五輪,長野五輪等の現地取材もなされました。2000年に結婚を機に退社し,1女の母でいらっしゃいます。厚労省の委員などを務められ,現在はイベント,シンポジウムの司会や,東京MXテレビ「バラいろダンディ」金曜日に出演されています。
―関谷さんは大学卒業後,日本テレビにアナウンサーとして入社されましたが,なぜアナウンサーという職に就かれたのでしょうか。
関谷さん 就職を考えたとき,私は報道に携わりたいと思いました。伝える立場であるアナウンサーや,取材する立場である記者などの職を考えていて,アナウンサーの入社試験を受けたら,受かってしまったというのが正直なところです。
―そうすると,アナウンサーに絞っていた訳ではないんですね。
関谷さん そうなんです。アナウンサーでも記者でも,最終的に報道に携われたらという気持ちがありました。
―報道に携わりたいと思われたのはなぜでしょうか。
関谷さん 高校生のとき1年間,アメリカに留学をしました。その留学先で,色々な経験をしました。アルコール中毒の方や薬物中毒の方のお話を伺ったり,家庭的に恵まれない子供たちが居るところに赴いたり,そういったカリキュラムがあり,私はそれに感化されました。自分のせいだけじゃない,家庭環境等で不幸なことになってしまった方々のために何か役に立ちたい,そう思うようになりました。それで私は当時,家庭裁判所調査官になりたいと思ったんですよ。それもあって,大学は国際基督教大学で社会学を学びました。
けれども,留学先で出会った方と将来のことを話した際,その方から「留学で世界の現状を見てきた経験を生かしたら?」と言われました。「報道」に携わることが夢でもあった私は,その方の一言もあり,より広いフィールドである報道を目指そうと思いました。
―それで,日本テレビにアナウンサーとして入社されることになったんですね。実際に入社されて,どうでしたか。
関谷さん アナウンサーとしての研修,たとえば表現の仕方,リポートの方法等の研修があるんですけど,楽しいと思える反面,とても大変でした。アナウンサーって全人格が出る仕事なんですよ。同じことを伝えるにしても,表現の方法や,声の出し方などにより,受け手に全然違って捉えられてしまいます。「そんな表現しかできないのか。今まで何を経験してきたんだ!」などと厳しい指導を受けると,なんだか人格を否定されたような気がしたりして辛い部分もありました(笑)。
―我々弁護士も,依頼者等から聞き取りをするため「インタビュー」することも重要な仕事の一つです。「インタビュー」をされる際,意識されていることはありますでしょうか。
関谷さん 人から話を引き出すためには,まずは自分から話すことだと思います。自分が話すことによって,自分の人格を相手の方に晒し出す。そうすることによって,相手の方との信頼関係を築き上げ,その方からお話を伺えると思います。
―関谷さんは,日本テレビのアナウンサー時代,主にスポーツ番組を担当されたということですが,もともとスポーツに興味を持たれていたんでしょうか。
関谷さん いえ,ほとんど運動をしていなかったし,スポーツ番組を担当するまで正直ほとんど興味もなかったんです。それなので,スポーツ番組を担当することが決まった後,自宅にスポーツ新聞を取って,出勤途中に読んで勉強をしていました。ただ当時,女性でスポーツ新聞を読んでいる方が少なかったようで,周りからは奇異の目で見られていたように思えます(笑)。
―スポーツの現場で取材されることも多かったのでしょうか。
関谷さん はい,私がアナウンサーになり,番組を担当していた90年代前半は,巨人の松井選手が入団したりイチロー選手が活躍し始めたり,Jリーグが開幕したり,スポーツ界がとても盛り上がっていました。野球やサッカー等の現場へ伺い,取材することは多かったです。
―取材される際,意識されていたことはありますか。
関谷さん 当時はまだ,女性スポーツキャスターが少なかった時代でして,注目される一方,「女性に出来るのか」「ただ観に来ているだけじゃないのか」といったような揶揄される部分も正直あったと思います。私はそれが嫌だったので,取材先の方に信頼してもらえるよう,「取材」をしに来ているんだと理解していただけるよう意識しました。ヒールは履かず,なるべく地味な格好をして現場に行っていました。そうしないと,いざというとき,コメントを頂けないんです。
―先ほどお話頂いた,相手の方との信頼関係ですね。
関谷さん たとえば,優勝したチームの選手に話を伺うとき,いきなり行ってもなかなか話を伺うことはできませんが,信頼関係があれば,多数の取材が殺到していても「関谷さんだから話すか」と思って頂き,お話を伺えることがあったと思います。だから私は,特に取材する予定がない日でも現場に足を運んで,選手と会話したりして信頼関係を築くようにしていました。
―その信頼関係があって,いろいろな選手から様々なお話を伺うことができたんですね。
関谷さん ただ,私がインタビューすると選手が色々答えてくれるって,他社の方々も期待していたらしく,私が選手にインタビューしようとすると,他社の記者さんとかも寄ってくるんです。私がいいコメント取らなければと,プレッシャーにもなっていました(笑)。
―番組では,生放送も担当されていました。時間の使い方や表現方法等とても難しいように思えますが,いかがでしょうか。
関谷さん 生放送は,本当何が起こるかわからなくて,たとえば予定していたゲストが来なかったり,時間が押していて原稿を端折らなければ間に合わなかったり。入社したてのころは,放送時間内に間に合わなくて酷く怒られたこともあります。ただ,限られた時間で必要なことを伝えるという大切さは生放送で鍛えられたと思います。先輩のアナウンサーからは,「1秒で伝えられることはたくさんある。」と教えられました。大事なことから聞き,インパクトのあることから分かりやすく伝え,限られた時間内で聞き手を引きつける工夫はしていましたね。
―生放送中のハプニングは何かありましたか。
関谷さん はい,ありました。たとえば,ヤクルトの優勝後のビールかけのとき,選手に押されてプールに落ちちゃったんですよ。そのとき,身に付けていたマイクを瞬時に外しプールサイドに置いて,濡らさなかったんです。濡らしちゃうともう使えなくなってしまうですが身を挺して守りまして,このことは後々まで褒められました(笑)。生放送は,何が起こるかわからないっていう楽しさもありますね。
―アナウンサーをされていた当時,視聴者等からご意見を頂くこともあったのでしょうか。
関谷さん はい,当時はメール等もなかったので,お葉書やお手紙で頂きました。地方のグルメを頂きリポートするという番組だったんですけど,一日に5,6軒回って食べ物を頂くんです。麺類をたくさん頂いていて,もう後半になると,おなかがいっぱいで,その時「私のおなかの中に麺がとぐろを巻いています。」と表現しました。そうしたら後日,とても丁寧な文面のお葉書を頂きまして,「女性が,麺のことを『とぐろを巻く』と表現するのは美しくない。」とご意見を頂いたんです。私としては,麺でおなかがいっぱいという表現をしたかったのですが,いろいろなとらえ方があるのだなって思いました。
―ところで,弁護士に対するイメージはどのようなものでしょうか。
関谷さん 私ではなく,日本テレビの社員である夫なのですが「行列のできる法律相談所」を当初からずっと担当しています。そのためか,弁護士さんをとても身近に感じています。
―まだまだ弁護士は,敷居が高いと言われるところでありますが,「行列のできる法律相談所」は弁護士を身近にして頂いたと思います。弁護士同士,意見が分かれ議論したり,弁護士という仕事の一端をアピールして頂いたと思っています。
関谷さん そう言って頂けるとありがたいです(笑)。
―弁護士個人のみならず弁護士会も「伝える」ことに関し,しっかりと研鑽し向上していかなければならないと思いました。本日はありがとうございました。