従前「わたしと司法」と題しインタビュー記事を掲載しておりましたが、このたび司法の枠にとらわれず、様々な分野で活躍される方の人となり、お考え等を伺うために、会報広報委員会が色々な場所へ出向くという新企画「関弁連がゆく」を始めることとなりました。
元総合格闘家
小路 晃さん
「わたしと司法」改め「関弁連がゆく」。記念すべき第1回は、小路晃さんです。
小路さんは、身長172cmの身体で大きな相手に一歩も引かぬファイトスタイルから、「最後の日本男児」「ミスターPRIDE」の異名をとり人気を集めました。引退後は、東京のラーメン店での修行を経て、平成23年に出身地である富山県にラーメン店「つけめん えびすこ」を開店。さらに、一般財団法人日本プロスピーカー協会のベーシックプロスピーカーとして講演活動もしていらっしゃいます。
小路さんのチャレンジ精神と熱い人柄に迫ります。
―小路さんといえば、小さな身体で大きな相手に立ち向かっていく姿に勇気をもらった方も多いと思います。最初に格闘技に興味を持たれたきっかけは何だったのですか。
小路さん 父がプロレス好きでしたので、小学2年生のころにプロレスのテレビ中継でタイガーマスクを見たのがきっかけです。「俺はこのリングで世界一強くなりたい!俺はここを目指す!」と決め、小学2年生から柔道を始めて、「将来プロレスラーになるために強くなるんだ!」と思って頑張っていました。高校生になると、前田日明選手に憧れ「ショー的な要素を排除したプロレスこそが真の戦いだ!マイクタイソンよりも最強だ!」と興奮したのを覚えています。
―小学生から柔道を始めてプロレスラーに憧れたところまでは私とまったく同じです(笑)。そこからプロレスラーではなく総合格闘家になろうと思ったのはなぜですか。
小路さん アメリカのUFC(金網に囲まれた八角形のリングで戦う総合格闘技)を見たら「こっちが本物だ!こっちの方が強い!」と感じて、総合格闘家を目指すようになりました。
―格闘技界で身長172cmというと、かなり小さい方だと思うのですが。
小路さん そうですね。獣神サンダー・ライガー選手が私と同じくらいの身長なので、私も飛んだり跳ねたり空中殺法が必要なのかな?と考えたりしたのですが、次第に、強ければ身長差はカバーできる!それには練習しかない!!と思うようになりました。
―どのような稽古を積んで来られたのですか。
小路さん 所属していた道場の木村政彦先生(15年間不敗で「木村の前に木村なく木村の後に木村なし」と言われた史上最強の柔道家)から指導を受け、「3倍の努力をすれば身長が小さくても絶対に策はある!」と決めて努力しました。相手にどんな技術や力があっても、練習量が3倍違えば技はかかりません。朝5時から警視庁の機動隊と3時間寝技の稽古、昼は大学のレスリング部で2~3時間、夜は道場でスパーリングと基礎トレーニングを3~4時間しました。年に何日も休みがなく、盆と正月も、試合翌日も稽古に明け暮れました。
―すごい…。しかし、小路さんの活躍しておられたPRIDEなどは華やかな世界ですが、格闘技だけで生計を立てられる人というのは、トップ数%なのでしょうね。
小路さん そうですね。当時は一時的にPRIDEという人気イベントがありましたが、その前後の時期にはプロの格闘家なんてほぼいませんでした。格闘技で食える時代が来るとは思いもしませんでした。私もPRIDE3くらいまでは格闘技だけでは生計を立てられず、築地の湯葉屋さんに住み込みで働いたり、ユニットバスの搬入の仕事などをしていました。その後、海外の試合などが増えてきて、アルバイトをしなくてもよくなりました。
―今、当時のご自身を振り返って、思うことはどんなことですか。
小路さん PRIDE1はもう17~8年前になりますが、今でも「小路!あんな小さい体で頑張ったな!勇気をもらったよ!」と言ってくれるファンの方がいます。ただ、現役時代の私は、「俺が!俺が!」という「For me」の精神しか持ち合わせていませんでした。もし、当時の私が「見てくれる人たちに勇気を与えよう!」「困っている人たちにチャレンジしてもらいたい!」「夢を諦めないで頑張ろうぜ!」というメッセージを持って戦っていたら、もっと違う成果が出ていたと確信していますし、格闘技全体がもっとメジャースポーツになったんじゃないかと思います。今は、「For you」の精神を人生の土台に置いて、土台から一貫性のある日々を積み重ねていくことが大事だと感じています。それを、日本プロスピーカー協会認定の講演家として、多くの人に、そして自分を育ててくれた格闘技界にも伝えていきたいです。
―今も高い志と情熱を持っていらっしゃるのですね!格闘家を引退された後、ラーメン店を経営されるようになったのは、何か理由があるのですか。
小路さん ある年、年末の試合に向けてアメリカでトレーニング中に、主催者から「お前の試合は無くなったから日本に戻ってこなくていい。」という、クビ宣告の電話を受けたのです。あまりのショックに、クリスマスも正月も部屋に引きこもり、泣いても泣いても涙が枯れることはありませんでした。戦わずして道が閉ざされ、死んでしまいたいと思いました。最後に街の空気を吸おうと思ってシアトルのチャイナタウンへ歩いて行ったら、赤い提灯に「ラーメン」と書いてあり、吸い込まれるように入りました。何の変哲も無い醤油ラーメンを食べながら、「俺は何をやってるんだ!アメリカまで来て腐ってどうするんだ!」と気付いたのです。「日本に帰ろう!そして、引退した後は、このラーメンのように人の心を温められるラーメン屋になろう!」と決めました。
―今、今経営していらっしゃるラーメン店の従業員さんは何人いらっしゃるのですか。
小路さん 社員4人とアルバイト15人です。
―実は、顧問の社労士さんをつけていらっしゃるのですよね!どういう思いで顧問契約をされたのですか。
小路さん 長時間労働で過酷...というイメージの強い飲食業ですが、だからこそ従業員が働きやすい環境や仕組みを整えたいと思い、プロの力を借りることにしました。顧問の社労士さんからは、問題が起きてから対応するのではなく問題が起きる前に準備をしておくという事前対応の大切さを教えていただきました。労働基準法などもまったく知らず「努力=長時間労働」だと思っていた私にアドバイスをいただけて、今では社会保険も厚生年金もしっかりかけています。
―それは素晴らしい!格闘家から転身されて、すぐに従業員さんとそのような関わりができたのですか。
小路さん いえいえ。以前の私は、「なんでお前こんなことやってんだ!」「わかるだろお前!なにやってんだ!」「俺がルールなんだから黙って俺について来ればいいんだよ!」という関わりでした。お店にお客様はいっぱい来られるのですが、従業員の満足度は上がらず離職率が高かったです。売り上げも少しずつ下がっていきました。そんなころ、選択理論心理学という学びに出会い、従業員との関わりを改善していきました。従業員の声を傾聴して、従業員を励まして、従業員の成長を支援しました。そうするようになったらどんどん成果が上がるようになり、学びを始めてから8か月後には2号店を出すことができたのです!
―その考え方は多くの経営者にも伝えたいですね!
小路さん はい。職場だけではなくて、以前の私は、仕事を優先して家庭をないがしろにしていたので、妻との関係もうまくいっていませんでした。今では、妻に謝り、結婚記念日にちなんで毎月14日にスイーツを買い、感謝の手紙を添えています。おかげさまで今は家庭も仕事も楽しくやっています。仕事では、「ここが空いたので出店しませんか。」と声を掛けてもらえるようになったり、出資してくれるという話も出てきました。銀行も、オープン当時はお金を貸しれくれなかったのに、今では借りてくださいと言ってくれます!(笑)。
―小路さんの人生のモットー(理念)を教えてください
小路さん 愛・感謝・貢献、愛を持って接すれば不可能なことはない!
―お店はこれからどうしていこうとお考えですか。
小路さん ラーメン店は1年で7割潰れますが、既に4年が経過しました。経営者としては、まずは5周年に向けて、妻、子供、従業員を幸せにしていく関わりに仕組みを変えていきます。私は、ラーメン店の店舗数は私の愛の形だと思っています。愛の形を増やしていって、故郷富山に貢献したいですし、その後は少しずつ東京にも出店し、ゆくゆくは世界に愛の形を拡張していきたいと思います。そして、格闘家のセカンドキャリアのモデルになり、後輩に現役選手に自分の人生を戦略的に経営する技術を伝えていきます。
―昨年大晦日の総合格闘技イベントRIZINでは、元大関把瑠都選手のトレーナーとして、見事勝利に導かれましたね!
小路さん はい。把瑠都の素材は間違いなくダイヤモンド級です。しかし、把瑠都には、ただ強いだけではなく世の中を明るく照らしてみんな元気付けようぜ!と話しています。自分を育ててくれた格闘界をもう一度盛り上げて、それを見て勇気を持つ子供が出てきてくれたら嬉しいです。
―これからも、ラーメン界に、格闘技界に、ご活躍をお祈りしております!今日はありがとうございました!
小路さん ありがとうございました!押忍!