従前「わたしと司法」と題しインタビュー記事を掲載しておりましたが,このたび司法の枠にとらわれず,様々な分野で活躍される方の人となり,お考え等を伺うために,会報広報委員会が色々な場所へ出向くという新企画「関弁連がゆく」を始めることとなりました。
国立成育医療研究センターもみじの家 ハウスマネージャー
内多 勝康さん
今回の「関弁連がゆく」は,国立成育医療研究センター(以下「成育医療センター」)もみじの家のハウスマネージャーの内多勝康さんです。
内多さんは,30年間勤めたNHKのアナウンサーを52歳で退職され,もみじの家のハウスマネージャーへと就任されました。
今回は,内多さんに思い切った転職の経緯とともに「医療的ケア児」を取り巻く現状について伺って参りました。
― はじめに,内多さんのご経歴をお伺いします。NHK に入局された経緯を教えてください。
内多さん
大学では教育学部で,教職もとって先生になる準備もしていましたが,大学4年生になって就職について真剣に考えるようになったところ,テレビから色々な価値観を吸収してきたんじゃないかと,小さい頃のヒーローものやドラマ,ドキュメンタリーなどから。自分としては大げさに言えばテレビに育ててもらったというイメージがあったので,ダメ元でテレビ局を受けてみようと思いました。
今でこそぺらぺらしゃべりますけれど,始めはアナウンサーではなくディレクター志望だったのです。NHK もディレクターを第一希望で受けました。第二希望以降は何でもよかったのですが,消去法でいくと第二希望がアナウンサーになってしまって,どうせならないだろうということでそのまま書いてしまったのです。そうしたら人事が何を思ったかアナウンサー採用で考えてくださって。
― 内多さんは発声やしゃべり方がとてもお綺麗ですが,昔からそのような感じだったのでしょうか。
内多さん 自分では全然そうは思っていなかったのですが。やっぱり30年間アナウンサーをやったからですかね。毎日トレーニングしたようなものですものね。声の良さは大学くらいから言われるようになりました。でも,最初は下手で,全くトレーニングもしていなかったし,失敗もよくしました。笑っちゃうようなアナウンサーぶりでした。4月に入局してそれから1か月半くらい研修所に缶詰になって,発声練習から滑舌のトレーニングやニュースを読む練習などを積んだ上で初任地に赴任するんですけれども,1か月半くらいじゃ話にならなくて,失敗を繰り返していました。初任地は高松でしたが,皆さん温かくてそんなに苦情も来なくて助かりました。
― 担当される番組は,ドキュメンタリーやニュースが多かったのでしょうか。
内多さん
初任地はあらゆることをやりました。NHKは必ず高校野球の地方大会があるので,香川県大会の実況もしました。ディレクター志望だったので, アナウンサー業務の合間をぬって取材し,企画の提案も出しました。リポートや番組を作ったり,放送人としての基礎,いろはを学んだ5年間だったと思います。
2局目の大阪以降,仕事の方向性に色が付いてくるんですけれども,そこから報道系の仕事が多くなりました。アナウンサーで赴任したのですが,1年間記者の修行をしてこいと言われて,記者の遊軍に放り込まれました。1年間アナウンサーとしてテレビにでることはほとんどなく,取材活動や原稿書きをしました。その後, 近畿地方の夕方のニュース番組のキャスターになったので,大阪時代は報道一色でしたね。
― 大阪での勤務時には阪神淡路大震災をご経験されたとか。
内多さん 大阪には4年いたのですが,4年目のことでした。それまでの全てがひっくり返るような出来事でした。その後,東日本大震災があったのでイメージも薄れてしまいましたが,未曾有の大災害で,衝撃的でした。
― 内多さんの著書「『医療的ケア』が必要な子どもたち(ミネルヴァ書房)」によれば,当時,報道機関として震災の情報を発信しなくてはいけないことに関し,ご苦労があったとのことでした。
内多さん はい,ローカル放送だったので,地域の身近な人達に必要な情報とは何なのか,あれほど真剣に考えたことは初めてでした。水道やガスといったライフラインの復旧情報など一番気になる情報を出せないという放送ってなんなのだろうかと,すごく悩みました。もちろんそんなに簡単ではないという事情は良く分かるんですよ。必要な人員が割けないとか。ただそれをしょうがないと言ってしまってよいのかという気持ちも一方あって。被災者にとって一番必要なニュースはライフラインがいつ通じるのかなのに,会議のニュースばっかり入ってきたりして,役に立ってるのかなぁと思ったりするんですよね。それで,番組の編集責任者と話し合って形ができたんですけれどもね。それがどれだけ役に立ったかはわかりませんが,放送を作ることの意味合い,誰のために放送するのかということを真剣に考える良いきっかけ,経験になったと思います。
― その後どちらに赴任されたのでしょうか。
内多さん
ほぼ10年ぶりに東京に戻りました。それまで取材でお世話になった福祉の関係者の紹介で,東京に戻ったらこういう人に会ったらいいよと言われ,会いに行っている中で,自閉症の方に出会い,初めて全国放送のドキュメンタリーを作りました。それまでは自閉症はこだわりが強い, 人に迷惑をかけるので何とかこれを治さなくてはいけないという時代の中で,番組のメッセージは,「こだわりが強かったらそれを長所として捉えることで,理解をしてもらいながら社会に居場所を拡げていくことができる」というものになりました。そこまで深く考えて作った訳ではなかったのですが,そこをすごく評価してくださる方がいて,この番組を作った後,障害福祉をテーマに講演に呼ばれるようになりました。それで,その世界の専門家や最先端の方達に会えて,人脈がどんどん広がっていって,福祉が僕のフィールドになったという感じです。
そうこうするうちに医療的ケアにも自然と繋がりました。福祉だけの問題では捉えきれない医療的ケアの必要な子たちの存在がだんだん福祉の業界でクローズアップされてきて,この子たちと家族をどう支えていくべきなのかが社会的課題として浮かび上がってきたからです。そして,新しい支援の動きがあるという情報が人脈を通じて入ってきたので,早速「クローズアップ現代」に提案して,6年前に医療的ケア児についての番組ができました。その時,この成育医療センターにも取材にきました。当時はNHKを辞めるつもりはありませんでしたが,逆算するとそのときに転職への道が始まっていたんですよね。僕は全然知らなかったんですけれども,当時,水面下ではもみじの家の話があったそうです。番組放送から1年後に,もみじの家ができるという話と,ハウスマネージャーを探しているという話と,内多さんならないかという話が入ってきました。有難い話ですけれども,びっくりしました。
― 当時52歳ということで,転職して新しい職場に,というのはなかなかの勇気が必要だったのではありませんか。
内多さん そういうエネルギーがぎりぎり残っていたんですね。55歳になっていたら難しかったかもしれません。そういう話がくるのもぎりぎりの年齢だったと思うし,チャレンジできる最後のタイミングだったと思います。いろんな要素が上手い具合に転職の方に揃ってしまったんですね。運命的なものを感じました。
― では,改めてもみじの家の説明をしていただけますでしょうか。
内多さん
「医療型短期入所」というサービスになるんですが,これは医療機関がショートステイの福祉事業を行うというイメージです。私たちが主な対象としているのは退院した後も様々な医療的ケアが必要なお子さんたちですが,希望があればそのご家族も泊まることができます。
この医療的ケアが必要,というのは,退院できるくらいは安定している子たちなのですが,日常生活を送るためには医療が必要ということなんです。治療ではなくて,呼吸を助けてあげたり,直接食べられない子にはチューブを通して栄養を体内に入れてあげたり,というのが医療的ケアです。実際に行うのは医療従事者でなく家族,医療については素人さんがやるわけですから医療行為とは呼べないということで「医療的」ケアという呼ばれ方をします。
そして,医療的ケアが必要なことによって福祉の施設を利用できない,あるいは幼稚園・保育園に受け入れてもらえないという中で,ご家族が24時間3 65日のケアを背負っているという現状があります。家族の心身の負担も大きいですし,他の子が幼稚園・保育園で友達を作って,遊んだり喧嘩したりしながら社会性を育む時期に,全く経験が積めないというのも子ども本人にとっても良くない。医師達の間でも命を救うだけで本当に家族は幸せになっているのかというジレンマもあって,在宅に帰った後の生活,家族を丸ごと兄弟たちも含めて,セーフティネットの役割を果たしたいということで,このもみじの家を立ち上げました。その理念は開設以来,変わっていません。
― もみじの家は,どのように運営されているのでしょうか。
内多さん 国の福祉の制度から「障害福祉サービス費」という報酬が入ります。昨年度の実績で半分弱が国の制度からの報酬,世田谷区と都からの補助金などが全体の12%,部屋の利用料が5%で,全体の36%が赤字でした。ありがたいことに,赤字は民間の皆様からの寄付金で埋めていただいているという状況です。今の公的な制度だけでは赤字体質から脱却するのは非常に難しい状況です。もみじの家は全国から注目を集めているのは確かで,各地から視察にいらっしゃいます。この施設の見学をされた後,同じような施設を是非自分のところにも欲しいという気持ちになってくださるんですけれども,正直に収支のことをお話すると,なかなか難しい,成育医療センターだから寄付金が集まってくるんでしょう,と。そこが壁になって,子どもにとって必要であり家族のニーズにもマッチした施設であると皆さん感じても,そこまでなんですね。収支がとんとんになっていけば広がる可能性があると思います。国の制度が充実すれば,全国どこで事業を行っても同じ報酬が入りますから,国の制度で今の赤字を圧縮していけるように,継続して要望しているところです。
― もみじの家の利用者は,どの地域の方が多いのでしょうか。
内多さん 東京が大体8割で,神奈川が15%,埼玉,千葉と続くのですが,静岡, 長野,福島のご家族もいらっしゃいます。この前は山形から長い時間かけていらっしゃいました。そのお子さんは,医療的ケアが必要でも歩ける子なんですね。歩ける子は今,制度の狭間に落ちてしまって行き場を失っている子たちの象徴的な存在です。重症心身障害児の子どもたちの施設は各地にあるんですが,重症心身障害児とは重い身体障害と知的障害が重複した子,つまり歩けない,話せない子なので,動ける医療的ケア児はここに入れません。一方,他の福祉の施設に入ろうとすると,医療的ケアがあると受け入れられませんと言われてしまうんです。それで,この山形の子のお母さんも色々探して,ようやくこの東京のもみじの家に辿り着くんです。僕らとしては頼りにされるのは嬉しいですけれども,さすがに大変ですよね。ですので,どこでも安心して暮らし続けるためには,動ける子も含めて医療的ケア児のセーフティネットとなる受け皿が少なくとも各都道府県に1箇所は必要だと思います。
― もみじの家が,運営モデルとして回っていくということが分かれば,全国にもみじの家のような施設が増えてくるのではないか,と。
内多さん それを今,最大の目標にしていますね。ある意味それしか目標がないですね。そのメッセージが出せれば,僕としては大きな目的が一つ達成できたという感覚になると思います。来年に診療報酬の改定があって,2年後に障害福祉サービス費の改定があります。そこが勝負だと思って,いろんな関係者の人とネットワークを組んだり,厚労省の人と話し合ったりしながら,是非そういう良いメッセージが出せるように前に進んでいきたいと思います。
― 内多さんは,NHK 時代から,メッセージの発信というか,誰に何が必要で,その為に自分に何ができるのかということについて,常に真摯に向き合っておられるように思います。
内多さん
頭が単純なんでね,シンプルに考えて動く,それしかできないです(笑)。
放送業界にいる頃は,そうは言ってもいろんなネタを料理しなければいけないから広く浅くなりがちでしたが,今は一つの現場に定年までいられるので,その世界を深く掘り下げられるということは,すごく幸せなことだと思いますね。やりたいことがずっと続けられる。そういう意味では,今の立場でいられることにやりがいを感じます。
― 最後に,弁護士のイメージについてお聞かせください。
内多さん やっぱり弁護士さんは正義の味方です。そうであって欲しいです。権利を 守る最前線にいる方ですよね。僕はテレビ側の人間だったので,事件や社会問題に取り組 む弁護士のドキュメンタリーやインタビュー番組を見てきましたが,こういう人たちが人権を守る先頭に立って世の中を変えてきたんだなと思いますし,特に権利を脅かされている人に寄り添って味方になる弁護士の皆さんは,僕が憧れる正に正義の味方ですよね。
― 弁護士の仕事への向き合い方も内多さんのお仕事への向き合い方と似ている部分があって,我々も依頼者の方にとって何が幸せなのか,何ができるのかを考えますし,ある事件について突き詰めることで,それがメッセージとなり, 法律が改正となったりすることもあるので,内多さんと同じことをしているようにも思います。
内多さん 弁護士さんと同じと言われるとお恥ずかしいですけれども,そうおっしゃっていただけるのはすごく嬉しいです。そういう役割が果たせるとしたら自分にとっても最高のことですよね。
― 本日はありがとうございました。内多さんの今後のご活躍をお祈りいたしております。
内多さん ちょっと大きいことを言ってしまったので,そんなにできないと思うんですけれども(笑)。