従前「わたしと司法」と題しインタビュー記事を掲載しておりましたが,このたび司法の枠にとらわれず,様々な分野で活躍される方の人となり,お考え等を伺うために,会報広報委員会が色々な場所へ出向くという新企画「関弁連がゆく」を始めることとなりました。
俳優,歌手
吉田 栄作さん
今回の「関弁連がゆく」は,俳優の吉田栄作さんです。
吉田栄作さんと言えば,トレンディドラマで大活躍されて,人気絶頂期のときに渡米されたという印象の方が多いかと思います。
そんな吉田さんに,幼少の頃や俳優業について,さらには渡米のことなど,色々とお話を伺ってまいりました。
― まずは幼少の頃について教えてください。
吉田さん 僕は神奈川県の秦野の出身ですが,そこはとても自然が豊かなんです。丹沢山地があり,海も近くて,町の真ん中を川が流れていて,駅の裏側には田畑が広がっていて。そんな自然の中で育ちましたから,ランドセルを置いたらすぐに外に出かける様な活発な子どもでしたね。カエル,ザリガニ,カブトムシを捕まえたりして。ときには蛇なんかも捕まえていました。
― 蛇は凄いですね(笑)。スポーツは得意でしたか。
吉田さん 家に自転車が1台しかなくて,それはいつも4歳上の兄が使っていたので,友達が自転車で出かけるときも自分だけ走っていたんですね。そのお陰で走るのが得意になって,徒競走はだいたい1位でしたね。部活は小学5年から高校生までバスケットボールをやっていました。
― 背はいつ頃から高かったのですか。
吉田さん もう幼稚園のときからずっと高かったです。学校で背の順に並ぶと,だいたい後ろから3人以内でした。
― ちょっと下世話なお話なんですが,小さいときから背も高くて,スポーツも得意ということですと,,,
吉田さん はい!モテました(笑)。中学生のときは校則で丸坊主でしたけど,高校からは髪も伸ばしまして。そうすると色んな女の子が教室に僕を見に来たりもして,学校から帰るときなんかは,校舎の窓からたくさんの女の子がキャーキャー言ってたり。そういう経験があったので,将来,芸能界でもいけるかもしれないと考えたのかもしれないですね(笑)。
― 子どもの頃から俳優や歌手を目指されていたのですか。
吉田さん いえ,高校2年生になるまでは,俳優や歌手なんて全く考えていなかったですね。
― 高校2年のときに何かきっかけがあったのですか。
吉田さん 当時のガールフレンドに誘われて,新宿のセンタービルの高層階にあるお店にお茶を飲みに行ったんですね。それで,窓の外を見ていると,スクランブル交差点をたくさんの人が通っているのが見えて,人ってとてもちっぽけだなと感じたんです。もちろん自分もその中の1人なんですけど,どうせなら,一度しかない人生なので記録に残るような人間になりたいとふと思い立ったんです。それが俳優とか歌手に直結したんですね。その次の日には,バスケ部も退部しました。あの日,あそこに行ってなかったら俳優になってないんじゃないかなと思いますね。丁度その頃,友人からボーカリストにも誘われてバンドも始めたんです。多分,僕の人気を買われたんだと思うんですけど(笑)。
― そういうきっかけで人生が変わるんですね。このインタビューがきっかけになって,弁護士を目指されたりとか(笑)。
吉田さん 役の上ではすぐに弁護士になれるんですけどね(笑)。
― いざ俳優を目指すというとき,目標とする人はいましたか。
吉田さん 親がアランドロンのファンで,自宅に大きなポスターが飾ってあったということもあって,彼には憧れてましたね。後は,白Tシャツとジーンズ姿のジェームスディーンなんかも,着飾ってないかっこよさ,潔さが良いなと思っていました。
― 吉田さんと言えば,白Tとジーンズのイメージがありましたが,,,
吉田さん はい,完全にジェームスディーンのパクリです(笑)。そんなに裕福でもなかったので,着飾ることができなかったというのもありますが(笑)。
― ちなみに,今,Tシャツとジーンズは何枚くらいお持ちですか。
吉田さん Tシャツは100枚以上あるでしょうね。ジーンズは50着くらいですかね。
― それでいざ俳優を目指すと決めて,どうされましたか。
吉田さん 割と行動力がある方だと思うんですが,すぐにオーディション情報が載っている「月刊デビュー」という雑誌を買ってきて,色々なオーディションに応募し始めました。一眼レフカメラを持っていた同級生のアサミ君という友達に連絡して応募用の写真を撮ってもらって。でも,けんもほろろの対応ばかりだったんですが,やっとある小さな俳優養成所から,養成所に入るためのオーディションを受けないかと勧誘されて,結果的にそこに入りました。
― そのときまで,演劇とかのご経験は一切なかったのですか。
吉田さん 全くないですね。バスケ部でしたから(笑)。
― 養成所に入った後はいかがでしたか。
吉田さん 19歳で上京して,江戸川区の平井という町で,風呂無しアパートで1人暮らしを始めました。でも,その頃はカラオケの映像とか,テレビや映画のエキストラくらいしか仕事がなかったので,渋谷のカフェバーでバイトをしていたんですね。そこは渋谷ビデオスタジオに近かったので業界の方が結構来ていて,常連だったスタイリストの方から,コンテストの応募用紙をもらったんです。フジテレビ主催の「ナイスガイコンテスト」というものでした。そのコンテストは,賞金100万円というのが魅力でしたね。それで,お風呂付きのマンションに引っ越したいというモチベーションで出場して,無事にグランプリを獲って,税引き後で95万円の賞金も獲得できて(笑),おかげで世田谷に引越せました。
― そのコンテストの後は順調でしたか。
吉田さん コンテストに来ていた現在のワタナベエンタ-テインメントの社長にスカウトされて,当時の渡辺プロダクションに所属することになりました。あと東映の映画のプロデューサーの方も来られていて,オーディションも受け,その年の暮れに,東映から映画デビューをさせていただき,またレコード会社の東芝EMIから独立されたファンハウスレコードの社長も来られていて,翌年,そこから歌手デビューもさせていただきました。
― そのコンテストにきっかけがぐっと凝縮されていたんですね。
吉田さん 周りから見ればトントン拍子に見えるかもしれないですね。1988年,19歳の時のことでした。
― 当時,渡辺プロダクションに所属するときは契約書の取り交わしはありましたか。
吉田さん ちゃんと契約書取り交わしましたよ。2通あって調印して,1枚ずつ持ち合いました。
― 渡辺プロは当時からしっかりとされていたんですね。その後,トレンディドラマの第一人者としてご活躍されるわけですね。
吉田さん よくトレンディドラマの申し子のように言われるんですが,トレンディドラマは僕が出演する前からあったんですよ。例えば,石田純一さん,三上博史さん,陣内孝則さん,ダブル浅野さんとか。そういった方々がトレンディドラマの撮影で僕のバイト先のカフェに来ていたりしたこともあって,バイト中にそれを横目に見ながら,「ああ,俺も出たいな」と思っていましたね(笑)。
― トレンディドラマではないですが,吉田さんの代表作には,「もう誰も愛さない」というドラマ作品がありますね。
吉田さん あれは,ジェットコースターのようにどんどん展開が変わる作品で,見ているときにトイレにちょっと行って戻ったらもう3年経ってた,みたいな作品でしたね。またこの作品にはすごく残虐なシーンもあり,後に流行となるドロドロ系ドラマの先駆けだったと思います。
― 1995年,渡米されたときのことを聞かせてください。
吉田さん 後から考えるとやり残しはもちろんあったんですが,20代前半で一応夢を達成したという感じがあって,ふと気付いたら,自分でない自分が一人歩きしているみたいな感じがしたんですね。あとは,忙しい日が続いたので休みたいという気持ちもありましたし,自分が勉強不足だと感じていて,色々勉強したいという思いもあって,渡米を決意しました。
― 勉強不足というのは俳優業のことですか。
吉田さん
俳優業だけでなく,歌手として,いや,人として勉強不足というか(笑)。
日本ではもてはやされたこともありましたが,以前,仕事でアメリカに行ったとき,現地では何者でもない自分がいて,大好きなジェームスディーン,ブルーススプリングスティーンがいるアメリカで挑戦したいという気持ちが強くなったんです。
― 我々弁護士も留学を考えるとき,今の生活や向こうでの生活の不安があってなかなか踏み出せないんですが,吉田さんは急に渡米することに不安はなかったですか。
吉田さん 急な渡米に見えるかもしれないんですが,僕の中では何年も前から考えてずっと準備していました。26歳で渡米する4年前,丁度「もう誰も愛さない」をやっていた頃から英語の勉強も始めていました。駅前留学でしたが(笑)。
― 思い立ったらすぐ行動というタイプの方のように思っていました。
吉田さん そう見られたいというところがあるので,そんな風に演出してるところはありますね。でも,実際には割と計画的ですし,シミュレーションなんかもしっかりするタイプです。アメリカでは収入がなくなるから,アメリカで住む所は家賃抑え目のところを選んだりして。
― ちなみにアメリカに行くときに,「ビッグになる」と言ったとか,「ジャンボになる」と言ったとかの話がありますが,真相はいかがですか。
吉田さん 「ビッグになる」は矢沢永吉さんの言葉なので,違う言い方をしたと思いますよ(笑)。インタビューでテンション高く話したときに,もしかしたら「俺はジャンボになる!」とか言ったのかなぁ,覚えてないなぁ(笑)。
― アメリカでのつてはあったのですか。
吉田さん 渡米は1995年なんですが,その2年前の1993年に「今を抱きしめて」という曲の極秘レコーディングがロサンゼルスであったんですね。ドラマの主題歌だったこともあって,ドラマの冒頭シーンの撮影も合わせて。その時に,アメリカのロケーションコーディネーターと知り合いまして,ガーデンパーティーのときに,近い将来アメリカに来ますと宣言していました。その方に連絡して行きました。
― 実際に行ってみたらいかがでしたか。
吉田さん まず,英語が全然通じなかった(笑)。でも,仕事がなかったので,映画見たり,ライブハウスに通って知り合いができたりしまして,最初の1年半は周りにほとんど日本人がいない環境だったので,英語力は伸びました。未だに付き合っているアメリカ人の友達もできましたね。
― 寂しくて帰りたいと思ったことはないですか。
吉田さん ありました,ありました。アメリカ行ってすぐに(笑)。IKEAで買ってきた家具を組み立てているうちに1日が終わって,スーパーでパンとソーセージを買ってきて1人で食べて,「寂しいー!」ていう(笑)。でも,それを求めて行きましたからね。確か黒澤明監督がおっしゃっていた「心は体のあるところについてくる」という言葉のとおり,最初は寂しかったですが,時間が経つにつれ居心地が良くなっていきました。アメリカの空,海,空気は,自分にめちゃくちゃ合いました。日本を客観的に見ることも出来て,やり残したことに気付いたりして。アメリカにアジアンチャンネルというのがあって,そのチャンネルでNHKの大河ドラマが英語字幕付きで放送されていて,「そうか,大河ドラマに出れば世界に発信されるのか」なんて考えていたら,ちょうどそのタイミングで大河ドラマのお話をいただいて,渡りに舟とばかりに帰国して,それからベースは日本です。
― 帰国後に拝見した吉田さんで印象的だったのが「マネーの虎」というテレビ番組の司会でした。
吉田さん 当時,司会と言えば専門の方達がいる中で,最初はオファーをお断りしました。その後,何度もお断りさせて頂いても番組プロデューサーさんからプレゼンされて,結局引き受けることにしました。引き受ける条件として,全て本物にしてください,仕込みの人は止めてください,とお願いしましたね。
― 俳優業と歌手業のバランスはいかがでしょうか。
吉田さん これからも,主軸はやっぱり俳優業です。でも,俳優は自分ではない誰かを演じるわけですが,音楽は自分発信というところで,その2つをやることで車の両輪みたいにバランスが取れているところはあります。ドラマが終わったら次はライブだ,みたいに。
― ちなみに,俳優としての役作りはどうされていますか。
吉田さん 演じる役の立場の方にお話を聞かせていただくことが多いですね。何てことない会話でも大事にして,フッと自分の中に役が入ってくるという感じです。侍役のときはそうはいかないですが(笑)。でも,どんな仕事をされていても,例えば,刑事,弁護士,医者,あるいは容疑者だったり,立場は色々ですが,結局は同じ人間なんだなと思っています。飯食って,寝て,という。
― 弁護士役もおやりになったことがありますね。
吉田さん そのお仕事のときも弁護士の方に実際にお話を聞かせていただきましたね。仕事が終わるとバッジを裏返して付けていると聞いて,実際に作品の中で採用させてもらいました。
― 昨年末には,デビュー当時から在籍していた事務所から独立されましたが。
吉田さん 45歳を越えた頃から,このままでいいのだろうかと悶々としている自分がいました。起承転結に例えますと,俳優を目指したときが「起」,渡米からが「承」,そして第3章である「転」を考えたとき,ちょうど50歳という節目で事務所から独立させていただくことを決意しました。まだ先ですが,あとは「結」がどうなるのかですね(笑)。
― 俳優というお仕事でストレスも多いかと思いますが,リラックス法はいかがですか。
吉田さん
趣味が体を動かすことなので,太陽の下で体を動かしていると,ストレスはふっと無くなりますね。公園でベンチや鉄棒を使ってトレーニングしているんですが,近所の子どもたちが腕立て伏せの回数を数えてくれたりとか(笑)。
あとは,仕事が終わって,ひとっ風呂浴びた後にビールを飲むとリラックスできますね。弁護士の皆さんこそストレスがすごいんじゃないですか。
― そうですね。そのせいか,お酒好きも多い気がします。吉田さんは,お酒はお好きですか。
吉田さん 凄く好きですね。ちなみに,バーボンは若いときに飲み過ぎたのか,アメリカではスコッチを覚えました。でも,基本的にお酒は何でも飲みますよ(笑)。
― 今後のご活躍も楽しみにしております。本日は長い間,ありがとうございました。