従前「わたしと司法」と題しインタビュー記事を掲載しておりましたが,このたび司法の枠にとらわれず,様々な分野で活躍される方の人となり,お考え等を伺うために,会報広報委員会が色々な場所へ出向くという新企画「関弁連がゆく」を始めることとなりました。
元プロ野球選手
岡島 秀樹さん
今月号の「関弁連がゆく」は,巨人軍,レッドソックス等で大活躍された元プロ野球選手の岡島秀樹さんです。
岡島さんは,巨人軍で優勝を経験された後,北海道日本ハムファイターズを経て,アメリカのメジャーリーグのレッドソックスでも華々しい成績を残され,その後,複数の球団でプレーされてから,2016 年に現役を引退されました。現在は野球解説者としても人気の岡島さんに,野球人生,日米野球の違い,代理人制度等について伺ってまいりました。
― 野球を始めたきっかけから教えてください。
岡島さん 小学校2 年生のときに,2つ上の兄に野球に連れて行かれたのがきっかけですね。その頃は,野球かサッカーという選択肢しかなかったんです。
― 当時のご自身の野球センスを自己採点するといかがですか。
岡島さん その頃は何も考えていなかったのでよく分からないですね。単に楽しければいい,と。ただ,小学校の低学年の時に上級生とキャッチボールをしたら,上級生が僕のボールを取れなかったんですね。それで,コーチが,「球が速いしコントロールもいいから野球やったほうがいい」とは言ってくれてました。今,子どもたちに野球を教えているから分かるんですが,プロに行けるっていう人は,小さい時から違うんです。ちょっと走らせただけでも,身体能力が高いことが分かるんですね。そういう人が練習すれば,ドン,ドンと伸びていく。大人から見ると,僕もそうだったみたいですね。当時の自分は分からなかったんですが。
― プロ選手はそういう人達の集まりなんですね。
岡島さん
プロのアスリートって,身体能力が高いので,何やらせてもうまいんですよ。
でも,さらにそこからトップレベルになる人はまた別です。プロになって努力しない人はそこで終わるんですが,敗戦とか屈辱的な何かがあって,そこを飛び越えていった人がトップになれる。挫折を経験した人の方が伸びると思いますね。
― 野球を始めた後は,野球一筋でしたか。
岡島さん いえ,そんなことはないです。僕は,当時から背が高かったので,中学校ではバレーボールをやりたかったんですよ。当時,アメリカのバレーチームが好きで,ティモンズ,キライという選手のファンでした。ただ,親から,野球やらないなら勉強やりなさいと言われまして,「野球か勉強なら野球でしょう」と思って野球を続けました。勉強は嫌いでしたので(笑)。親から見たら,自分には野球が向いていると思っていたのかもしれません。
― 高校生になると熱心に野球に打ち込まれたんですか。
岡島さん いえ,好きでやってたというほどではないですね。4つ上に姉がいまして,その姉にモテるからと言われて,東山高校の野球部に入ったというくらいで。ただ,地元の京都ではそんなに負けなかったんですが,全国レベルでは歯が立たなかったので,そこから真剣にやり始めましたね。それまではサボることばっかり考えてた(笑)。周りの人は不満だったかもしれませんが,試合では活躍できていましたので。
― ピッチャーになるきっかけについてはいかがでしょうか。
岡島さん 僕は左利きなんですが,野球では,左利きの人はポジションが限定されるんですよ。外野かファーストかピッチャーのどれかなんです。例えば,左のキャッチャーってあまりいないでしょう?それで,球が速かったこともあって,小学校の時からずっとピッチャーをやってきました。
― 岡島さんの投げ方は,下を向いて投げる独特のフォームですね。
岡島さん 小さいときからずっとそうです。誰かに教えてもらったことはないんです。あのフォームでしか投げられないんですよね。全力で投げると下を向く,という。
― 巨人入団後に矯正されませんでしたか。
岡島さん されましたよ。でも,コーチ,先輩方,OBの方々からアドバイスをいただきましたが,直した方が良いという方と,直さなくて良いという方がいまして,両方の意見を聞いて,最終的には結果が全てなので,結果が出た後は何も言われなくなりました。結果を出すまで多少時間がかかりましたが(笑)。
― メジャーのピッチャーも個性的なフォームが多いですよね。
岡島さん そういう集まりです。でも,投げる前の動作が変わっているだけで,下半身の使い方,体重移動,リリースポイントなんかはきちんと理にかなった投げ方なので,最終的には良いボールが投げられているんです。日本では個性は重要視されてなくて,どうしても型にはめてしまうんですね。1人1人個性があっていいと思います。
― 高校卒業後すぐに巨人軍に入団されて,いきなりプロ選手に囲まれて,戸惑いもあったのではないですか。
岡島さん テレビで見た人がいたので多少はびっくりしましたが,もともと僕は阪神ファンなので,巨人の選手はそれほど知らなかったんですよ。それが良かったかな,と。もちろん監督の長嶋さんと,姉妹校の上級生だった元木さんは知っていましたので,最初は「うわぁ!」と思いましたけど(笑)。
― 長嶋元監督はどのような方なんですか。
岡島さん 神様みたいな方ですね。長嶋さんっていうのは存在感が違うんですよ。メディアの前ではキャラクターを作って喋られますけど,チームの中では,叱るときには叱るけど,基本的には,周りを和ませてチームを盛り上げてくださる監督でした。本当に素晴らしい方だと思います。
― 独特な采配で現場が大変だということはなかったですか。
岡島さん もしかしたら多少は大変だったかもしれないけど(笑),コーチや周りの人達が支えていましたし,強いチームだったと思いますね。
― 大リーグに挑戦を決めたきっかけを教えてください。
岡島さん 僕は,元々は全然メジャー志向はなかったんですね。巨人で終わると思っていましたから。それが,2006年にトレードで北海道日本ハムファイターズに入って違うカラーのチームを知って,ヒルマン監督と海外帰りの新庄さんから影響を受けて,「アメリカの野球ってこうなんだ,行ってみたいな」と思うようになりました。
― どういうところが違いましたか。
岡島さん まず,監督が選手のことを考えてくれていて,毎回声をかけてくれるんですね。「家族は元気か」とか,「単身だけど大丈夫か」とか,「昨日投げたけど,今日も投げられるか」というように。巨人ではコーチが聞いてくれていましたけど,ヒルマン監督は,フレンドリーに,お兄さんのように,選手やその家族のことも考えてくれる方でした。新庄さんは,「楽しくやるよー」という感じで,試合に負けても,「明日,明日!」という明るい雰囲気の方でした。一時期の巨人は,勝ってるときは良いんですけど,負けたときは空気が重いときがありました。アメリカでも,試合の勝ち負けはもちろん大事なんですが,楽しく野球ができるかというのが重要なんです。それと,大きな違いは,アメリカはとにかくファンを大事にしているところですね。
― ピッチャーには,先発,中継ぎ,抑えとありますが,ご自身ではどの役割がお好きでしたか。
岡島さん 僕は毎日投げたいので,中継ぎ向きの性格なんです。雨で試合が流れたりすると,調子が狂ってしまうタイプでした。ピッチャーの役割の向き,不向きは,気持ちの面,性格の面が大きいんです。もともと先発をやっていたんですが,先発は登板の間が空くじゃないですか。僕は,ゲームの合間に色々と考えてしまう性格だったので,いつも成功していればいいけど,失敗したときには考えてしまって,考えれば考える程悪くなるんですね。打たれた後はショックが大きくて,次の登板まで気が重いんですよ。考える余地がない方が僕には向いていましたので,急遽投げたときの方が良い結果が出せていました。
― 抑えについてはいかがですか。
岡島さん 抑えは8回か9回で投げると決まっているんですが,僕は,決まっているのは苦手だったんです。抑えは,「俺じゃないと駄目だ」というプライドを持てる人の方が向いていますね。
― 岡島さんは,バッターの研究はされていましたか。
岡島さん 巨人時代はしてないですね。「あそこに投げておけば大丈夫」というのがありましたので。でも,それを覆されたのがアメリカです。アメリカでは,データが無いと駄目だなと思って色々研究しました。
― 先程の挫折の話にも繋がりますが,アメリカでのメジャーデビュー戦のお話を聞かせてください。
岡島さん 初登板の初球を打たれました。投げるときは自信満々でいったわけです。それが,下位打線の8番打者にいきなりホームランを打たれて,すごくショックが大きかったです。寝ずに考えましたよ,本当に。僕のこと知らないバッターですよ。普通だったら振らないじゃないですか。日本だったら,まずは1球待つんですね。「これがメジャーの野球なんだな」と痛感しましたね。監督からは,「メジャーのルーキーの洗礼だから気にするな」と言ってもらいましたが,こっちは屈辱ですよね。日本では,右バッターにアウトロー(*外角低め)を打たれたことなんてなかったですから。メジャーのバッターは力があるんで,追い込まれるまでは振り回してくるんですよね。でも,追い込まれた後のあててくるバッティングも巧い。バットコントロールが凄いんです。イチローさんとかもそうですけど。
― メジャーのピッチャーのご感想はいかがでしょうか。
岡島さん 彼らは,スピードが速いだけじゃなくて,とにかく変化球も含めてコントロールが良いんですよ。ピッチング練習見たら凄いんです。日本では見たことがないレベルでした。100マイル近くの全力投球でも四隅に投げ分けられるんです。あと,日本のピッチャーは,疲れるとどうしても球が浮いてくるんですが,メジャーのピッチャーは,直球でもバッターの膝から上には行かないですし,変化球でも低めにコントロールされている。
― メジャーは直球勝負のイメージがあります。
岡島さん 彼らはとにかく直球勝負ですね。直球で100マイル超えていたら,仮に打たれても,磨けば良いから使ってみようとなるんですね。変化球で三振を取っても,将来性がないと判断されて,なかなかメジャーに上げてもらえないんですね。
― 少し法律関連のお話になりますが,プロ選手になるとき,契約書は取り交わしましたか。
岡島さん はい,巨人のときもありましたよ。でも,メジャーリーグの契約書は,これくらいの厚さで(*指で2~3センチを示されました。),巨人のときとは全然違いましたね。色んな条項がありましたよ。他のスポーツをやって怪我をしたら解雇されるとか。代理人に全て翻訳してもらって契約内容を確認しました。
― 巨人軍時代は代理人を付けてらっしゃいましたか。
岡島さん いや,付けられないですよ。代理人を付けたら,嫌がられる雰囲気でした。
― アメリカとは大きく違いますね。
岡島さん アメリカは,選手と球団が平等,対等なんです。若い選手でも,多くの選手がエージェントを使っています。でも,日本では,選手は球団に雇われているという力関係なんです。日本では,メディアも「あなたが代理人使っているの」みたいな論調で,未だに選手が代理人使うのは良くないというイメージがあるように感じます。
― 余談ですが,毎年,メディアから推定年俸の報道がありますが,どのくらい正確ですか。
岡島さん 正確なチームと正確ではないチームがありますけど,巨人とソフトバンクはあまり正確ではないかもしれません。ちなみに,アメリカのメジャーは全選手公開ですので,全部,インターネットで見られます。年俸だけでなく,飛行機移動の場合のファーストクラス何往復分とか,キャンプ地の宿の負担等の付帯条件も。ファンがちゃんと評価するために全て公開されているんですね。
― アメリカでの代理人を選んだきっかけは何でしょうか。
岡島さん 売り込みがありました。先輩がお願いしているエージェントだったので,「まあいいかな」と。当初,僕は日本に残りたいと言っていたんですが,代理人が積極的で,話がトントン決まって行きましたね。選手はFA宣言しないとチームと交渉できないんですが,エージェントは事前にチームと話ができるんですよね。
― 代理人に求めるものは何でしょうか。
岡島さん まずは,伝えたいことをしっかりと球団に話してくれること。メジャーリーグでは,選手として3年やっていると,年俸が折り合わないときは調停になるんですが,調停では,球団の提示した金額かこちらが求めた金額の二者択一になってしまうので,全負けのリスクを回避したいわけです。交渉のプロの弁護士が,対等な立場で他の選手のデータや年俸等と上手に比較しながら交渉してくれるのは本当に良いと思います。そして,最終的には,データも含めてその選手が求める条件等を細かい所までしっかりと理解して欲しいです。有力な選手を抱えているエージェント会社はデータも豊富ですし,交渉力が強いですよね。あと,本当は良くないんでしょうけど,選手を多く抱えている会社だと,他の選手とセットでお願いするということもできます。日本では1人の代理人が選手1人しか担当できないという仕組みなので,そうはいかないですけど。
― 最近の日本のプロ野球事情についてもお聞きしたいんですが,昨年の日本シリーズで,巨人はソフトバンクホークスに完敗してしまいましたが,そんなに力の差があるものでしょうか。
岡島さん はい,そうですね。今,パリーグが強いんです。本当に力の差があると感じますね。ソフトバンクは,とにかく選手の層が厚くて,2チーム作れるくらいのレベルですね。2軍のピッチャーも,他球団に行ったら1軍ですぐローテーション入りできる実力があるのではないかと思います。ソフトバンクの2軍,3軍の選手は1軍を蹴落とす勢いなんです。巨人は,1軍は凄いけど,2軍,3軍の選手が1軍の選手を蹴落としたいという気持ちまで持てているかどうか。巨人に入って満足しては駄目で,1軍じゃないなら恥ずかしいと思ってほしいですね。今年は,巨人はリーグ優勝して,ソフトバンクにリベンジしてほしいですね。
― これからの野球の人気についてはいかがですか。
岡島さん 他のスポーツもそうですけど,皆さん,日本代表クラスだと注目してくれるので,今年はオリンピックイヤーですから,金メダルを取れば盛り上がりますよね。あとは,球場に足を運ぶのが良いと思います。球場に行っていただいて,ぜひ雰囲気を味わってほしい。ファンの一体感,応援の仕方,チームカラー。知れば知る程楽しくなると思います。
― 是非,球場で観戦したいと思います。本日は,ありがとうございました。