従前「わたしと司法」と題しインタビュー記事を掲載しておりましたが,このたび司法の枠にとらわれず,様々な分野で活躍される方の人となり,お考え等を伺うために,会報広報委員会が色々な場所へ出向くという新企画「関弁連がゆく」を始めることとなりました。
全日本柔道連盟 全日本男子監督/東海大学体育学部武道学科教授
井上 康生さん
今月号の「関弁連がゆく」は,全日本柔道連盟全日本男子監督の井上康生さんです。
井上さんは,2000年シドニーオリンピック男子柔道100キロ級で全試合オール一本勝ちで金メダルを獲得され,日本中を熱狂させた,国民的ヒーローの柔道選手でした。また,記憶に新しいところでは,2016年リオオリンピック男子柔道において,監督として,全階級メダル獲得という偉業をなし遂げられました。
今回のインタビューでは,ご自身の柔道選手としての修行環境,選手としてのオリンピック経験,その後の指導者としての経験を中心にお話を伺いました。
― 柔道を始められたのはいつですか。どのようなきっかけですか。
井上さん 5歳の時に柔道を始めました。もともと,父親が警察官でして,柔道家でもありました。ある日,父が,道場に兄弟3人を連れていきました。私は,3人兄弟の末っ子ということもあり,甘えん坊,泣き虫,母親べったりだったのですが,そんな私にとって,父親と柔道がとても格好よく見えまして,それで始めました。
― 井上監督にとって,お父さんはどのような存在でしたか。
井上さん 一言でいうと,怖い存在ですね。まさに,九州男児の親父という人でして,威厳があって,家族のトップという感じでした。ただ,柔道の先生としては,もちろん厳しかったのですが,父親としては末っ子の私には優しい面もありました。
― 宮崎県で過ごされた子ども時代の柔道への取り組む様子はどのようでしたか。
井上さん 小学校2年生までは,週に2日程度の稽古でした。父の転勤の関係で,延岡市から宮崎市内に引っ越し,強豪の静充館に通うようになってからは,週に5日の稽古となりました。ただ,朝練はなしで午後練のみでした。私の柔道の土台を作ってくれたのが宮崎時代の経験と父親ということになりますね。
― 高校で地元の宮崎を離れて,東海大相模高校・東海大学に進学したのはどうしてですか。
井上さん
2つ理由があります。まず,第1に,私は,(今もですが。)山下泰裕先生にあこがれていました。その山下先生の母校であったということです。当時の東海大学の環境のもとで,指導を受けて,世界に羽ばたきたいと思いました。
第2に,育成システムや思想に惹かれたという点ですね。柔道のみならず,人間教育を重視する。選手の育成に定評があり,学業にも重きをおいていました。人生をどう生きるべきかを考えさせ,人生の中で生きていくための力をつけさせる指導をしているところですね。
― 高校の指導者や大学の指導者からどのようなことを学びましたか。
井上さん
高校時代の指導者は,林田和孝先生でした。また,大学時代に大きく影響を受けた指導者は,佐藤宣践先生と山下泰裕先生のお二人でした。
林田先生も,佐藤先生の教え子でして,先生からは,私が世界で戦うために必要な土台を教わりました。その土台をベースに,大学では,佐藤・山下両先生からさらなる応用となるような指導を受けました。
現東海大学の監督である上水研一朗先生の指導にも大きな影響を受けています。
― 佐藤先生や山下先生は,井上監督にとってどのような存在ですか。指導はどのようなものでしたか。
井上さん
大学時代において,山下先生は私にとって生きる教材でありました。そして,佐藤先生がその生きた教材をうまく活用され,私に,細かく説明してくれました。
世界で戦っていくためにどのような柔道をしていくべきかということに関しては,生きた教材として山下先生が存在していました。佐藤先生は,それに加え,守・破・離ではないですが,常に,「井上は井上の柔道を作らないとだめだ」という話をされていました。また,佐藤先生は,最終的には,理を追求して自分自身でしか実現できない柔道を作り上げていることが大事なんだということを常に説かれていました。
技術面,帝王学については,山下先生の存在自体が教材として,さらに佐藤先生が細かく説明をしていただいたということがものすごくわかりやすく,また,いい意味で道しるべとなりました。
山下先生からのご指導や言葉かけは,私にとってあこがれの存在だということもあり,その一言,一言が自分自身のエネルギー,モチベーション,自分を高めていく力となりました。
― 井上監督の講演で,井上監督が佐藤先生から,「いつでもどこでも自分の考えを自分の言葉で伝えられるようにしておけ」と言われたという話を伺ったことがあり,とても感銘を受けました。このことについてのエピソードを教えてください。
井上さん
大学生のころで,まだチャンピオンにもなったことがない時代に,あるパーティーに出席していたところ,佐藤先生から,いきなり話をしろという風に振られました。その時は,準備をしていなかったこともあって,とんちんかんなことを言って終わってしまいました。その後に,「今日はいい機会だった。これを元に,いつどこで自分自身にふられても,しっかりと答えられる準備をすることが大事なんだ」とおっしゃられました。私としては,準備の大切さを教わりました。
これに関連して,指導者としても,選手としても,言語化をしっかりできることは,そのまま理論的にものを考えられることに繋がると思っていまして,現在,私は,指導者として,選手にそのような能力をつけさせることが大事だと思っています。このことは,社会においても重要な要素であるとも考えています。
今,選手に対して試合や合宿の後に課題克服シート等を考えさせて書くという習慣をつけさせることをしていまして,自分自身で整理することができるような指導をしています。
ただ,世の中には,そんなことをしなくても強くなる卓越した能力を持っている選手もいます。その辺の見極めや多様性の理解は,現場にいる指導者としてとても大事だと思います。スポーツ界においても課題ではないかと思っています。
― 続いて,選手としてのオリンピックの経験のお話を聞かせてください。シドニーオリンピックでは金メダルを獲得されました。表彰式で,お母様の写真を揚げられたのが記憶に残っていますが,金メダルを獲得した時のお気持ちやその時のエピソードがあれば教えてください。
井上さん
母親の遺影を掲げた行為は,ルールブック的には,やってはいけないことでした。現役時代にルールブックを熟読していたわけではないので,恥ずかしながらその時は知らなかったのです。ただ,あの出来事によって,試合内容や結果以外に,柔道家としての井上が,世の中に広く認知されるエピソードとなったのかと,今は思っています。
また,当時を振り返ってみると,怖いもの知らずで,自信に満ち溢れていましたね。
他の代表選手(吉田秀彦選手・野村忠弘選手・篠原信一選手)に比べれば,当時の私は,若手であって,試合に向けてのプレッシャー自体はもちろんありましたが,怖いもの知らずで,対応できたと思います。この時は,日本選手団の旗手をさせていただきましたし,試合の初戦では過去に苦戦したことのあるキューバの選手に10秒くらいで勝ったことで加速がつきましたね。
― 2004年アテネオリンピックでは,4回戦で敗北されましたが,いつもと違う自分だったのでしょうか。
井上さん
アテネオリンピックでの敗因は,準備力不足・準備不足だったと思います。
オリンピックまでの過程は調子が良く,前年の大阪の世界選手権でも試合時間を合わせても5分程度ではないかというくらい,ほぼほぼ1本勝ちで優勝していましたが,悪い意味で,自分自身を精神的なもののみで追い込みすぎてしまいました。その年の3月に膝を怪我した時でも無理くりに稽古を続け,食中毒になった時にも,点滴をうちながら自分を追い込んだりし,そういうものを乗り越えて自信がつくものだと考えていました。精神的に追い込みすぎて,大事なところを見落としてしまいました。冷静に自分の身体の状況を見極めるべきであったと思いますね。また,戦い方についても自分の理想ばっかりを追求していました。現実を見失っていたところもあったのかなと考えています。
指導者として,この経験は生きており,自分のこのような経験を選手には伝えています。
― (ラグビー日本代表のエディー・ジョーンズさんがしたように,)想定外のことを練習して,想定内にしておくようなことが大事なのですかね。
井上さん そうですね。自己肯定感や自分自身を信じる力は絶対必要です。しかし,それだけではだめですね。最悪の想定ができることは一流の要素だと思っています。その辺りのバランスは大事で,指導の際に気を付けています。選手は十人十色,環境によっても変わります。リオのときにもその点に留意して,選手を指導しました。
― 2005年に,右大胸筋を怪我されたと思いますが,そのときの心境やリハビリの様子は指導者としてどう生きていますか。
井上さん
大胸筋断裂でした。アテネオリンピックで負けて復帰した大会で戦った際に,怪我をしてしまいました。最終的に,手術しなければいけない程の怪我でした。2008年を最後に引退することは決めていましたが,手術をして,しっかりと回復していこうと,気持ちを整理して取り組みました。
手術後は筋力が落ちて,思うように回復が進まないリハビリの途中で,本当に柔道に復帰できるかという葛藤はもの凄くありました。また,内股を掛けた際に怪我をしたのですが,復帰して最初は,恐怖感で内股が思い切ってかけられなかったです。ただ,最終的には,開き直ることができ,恐怖感を克服できました。このような過程を経たことは,自分の人生にとっては,とてもいい経験でした。ただ,単にそういう経験をしたというだけでは駄目で,そういった経験を生かせるかどうかは,自分自身のその後次第であると考えています。
― 指導者としての経験について,教えてください。引退後,イギリスに2年留学されていますね。留学をしようとしたきっかけは。なぜイギリスだったのでしょうか。
井上さん
東海大学の教育の一環で留学を勧められたのもあり留学しました。イギリスに行った理由は,東海大学と交流を持っており,ヨーロッパの柔道界のレジェンドであるGeorge Kerrさんが,スコットランドにいらして,この方から,語学・経験・人脈作り・生きた柔道を学ぶためでした。
留学中には,己の無知さを感じさせられました。コーチング,語学,知識等,自分が知らないことばかりで,何もわかっていないことを知りました。ただ,その時に,知らない分だけ伸びしろがあるんだなと思うようになり,わからなければ勉強すればいいんだなとも思えるようになりました。
実際に,日本から見る日本観や世界観と,世界からみた日本観や世界観は,景色が全然違うということは強く感じました。
― 2012年ロンドンオリンピック後に,日本代表の監督になられましたが,それまでと何を変えられたのでしょうか。岡田隆さんをコーチに招かれたのはなぜですか。
井上さん まず,選手の自主性や自律性をより一層高め,それをサポートしていく仕組みを構築しました。現在,コロナ禍の状況になって,その方針にして良かったなと思っています。選手が自分自身で課題を明確にして取り組んでもらえています。また,(もちろん,勝負の世界では非科学的なことを否定するところではありませんが)試合で勝つという目標に向かって,睡眠や食事を含めて科学的なトレーニングをできるだけ取り入れることを進めていくことにしました。これらの点で岡田隆コーチが選手に非常に良い影響を与えてくれました。
― 井上監督の講演で「指導者と選手との間でリスペクトし合うことが重要だ。」という話を伺いました。とても素晴らしい考えだと思います。その点についてのお考えをお聞かせください。
井上さん お互いのリスペクトがあるから信頼関係が生まれ,その信頼性から活きたコミュニケーションが生まれるかと思います。信頼とは,熱意(相手や物事を真剣に考えてあげること),創意(常に工夫をし考え抜くこと),誠意(一人間として,選手,コーチ,スタッフなどとして大事に接すること)を実行することで可能となるものと考えています。
― リオオリンピックでは,金2つ,銀1つ,銅4つと全階級メダルというもの凄いことを達成したと思います。この結果について,どのように分析をされていますか。
井上さん 選手は最大限の力を発揮してくれたと思います。前の東京オリンピック以来のことを実現し,7階級制になってからは初めてのことでした。ただ,個々の選手の能力を見たときにはもっと高い成果が出たはずだと考えています。その点は反省点ですね。来る東京オリンピックに向けて,準備しています。
― 東京オリンピックがコロナで1年延長,前例のないことですが,どのようにとらえていますか。
井上さん
いやあ難しいですよ。簡単に言い表せないような難しさがあります。1つ言えるのは,この環境下において,選手もスタッフも,どのような状況(開催されても,非開催となっても)になっても,受け入れる覚悟は持っています。選手は,これまで,自分たちの目標や夢を持った上で,様々なものを犠牲にして,取り組んできました。その選手たちに活躍の場は与えてあげたいという思いは,現場の監督としては当然あります。ただ,私自身が,様々な要因によって,開催が難しいという状況になったときに,無理矢理やりたいということを言う立場にないことも当然わかっております。
開催できるとか開催できないとかという選択は,自分たちが決定できるわけではありません。我々としては,チーム一丸となって,安全面を担保した上で,今やれることを積み重ねていくしかありません。選手はこのような状況に向き合っていますし,これまでそんなことあまり選手の口からはっきりと聞いたことはなかったのですが,選手は,自分の目標のみならず,暗い世の中に,スポーツや戦いを通じて,明るい希望を与えたいと考えています。
―
柔道の普及への取り組み,公益活動について教えてください。井上監督の著書の中で,公益的な活動が大事だとの記述にとても感銘を受けるとともに,弁護士も社会正義の実現が責務であることから,共感をさせていただきました。
現在,どのような公益的な活動をしていらっしゃるのでしょうか。
井上さん
理想と現実はいろいろあるものだと思います。まずは,理想を掲げ,達成できるかは別として,それに向けて努力してよりよいものを作る想いが大事だと思っています。
山下先生の柔道ソリダリティから発展して,NPO法人JUDOsを作り,柔道を通じた社会貢献活動を実施しています。
例えば,最近では,エベレストの村で柔道を頑張っている子どもたちに,ヘリコプターで,柔道着と畳を贈るということを行いました。また女性の社会進出が問題になっているアフガニスタンの女性柔道家を,日本に呼んで,母国で柔道指導ができるように勉強してもらうことをサポートしたりしています。
これまでの自身の経験や柔道を生かしたうえで,少しでも社会に貢献することが柔道やスポーツの目的だと考えているので,活動を通じて大きな平和に結びつくように引き続き努力していきたいです。
― 最後に,(開催される場合になってしまいますが)東京オリンピックでの全ての柔道選手の活躍及び多くの感動を日本中に届けていただくことを期待しております。