従前「わたしと司法」と題しインタビュー記事を掲載しておりましたが,このたび司法の枠にとらわれず,様々な分野で活躍される方の人となり,お考え等を伺うために,会報広報委員会が色々な場所へ出向くという新企画「関弁連がゆく」を始めることとなりました。
松中 権さん
今月号の「関弁連がゆく」は,松中権さんです。松中さんは,石川県金沢市出身で,1976年生まれ,一橋大学在学中にはオーストラリアに留学をされた経験があります。一橋大学卒業後は,株式会社電通に入社されました。2010年に自身がゲイであることを社会に対してカミングアウトされ,LGBTQ(Lesbian(レズビアン,女性同性愛者),Gay(ゲイ,男性同性愛者),Bisexual(バイセクシュアル,両性愛者),Transgender(トランスジェンダー,性自認が出生時に割り当てられた性別とは異なる人),QueerやQuestioning(クイアやクエスチョニング,性自認や性的指向が定まっていない,また意図的に定めていない方,多数派とは違う性のあり方)の頭文字をとった言葉)の活動のための特定非営利活動法人グッド・エイジング・エールズを設立されました。その後,2015年には,「LGBT初級講座 まずは,ゲイの友だちをつくりなさい」を出版し,2017年に電通を退社した後も,精力的にLGBTQの問題に取り組み,社会的な活動をされています。今回のインタビューでは,ご自身の経歴,社会的な活動歴,現在の活動,今後について等を伺いました。
― 子どもの時はどんな子どもだったのですか。
松中さん
北陸という保守的な地域で生まれた三人兄弟の次男で,明るくて元気いっぱいの次男坊でした。
私は,小学校高学年くらいから,男の子が好きということに気づいたのですが,中学校時代はテレビ番組のキャラクターで「保毛尾田保毛男」が流行し,辞書に「ホモ=ホモセクシュアル,同性愛者,異常性愛」と書いてあることを知ってからは,明るい子を演じるように。その後もゲイであることをばれないために,明るく元気な子であることを演じていたましたが,実際は,自分の中では大きな爆弾を抱えている感覚で,いつもビクビクしていました。
― 2015年に「LGBT初級講座 まずは,ゲイの友だちをつくりなさい」を出版されま したね。松中さんとは,学生時代からの知り合いでしたが,ゲイであることは全く知らなかったです。ただ,本の中で当時の仲間の話があって,そうだったんだなと思いました。どうしてこの本を出そうと思ったのですか。
松中さん 出版社の知り合いからの出版のお誘いがあったのがきっかけです。その方とは,留学をしていたオーストラリアでインターンをしていた時の友人の縁で知り合いになりました。私が社会に対してカミングアウトをした後に,本を出さないかという話になり,出版に至りました。内容としては,性的マイノリティについて興味がない人にも,気軽に読める本になったらいいなという思いで出版することになりました。
― この本のタイトル「まずは,ゲイの友だちをつくりなさい」がとてもキャッチーなコピーだなと思いました。このタイトルを本につけた経緯を教えてください。
松中さん LGBTQのことを身近に感じてもらうために,編集者の方と打ち合わせをしながら,そのためには「友だちをつくり,いろんな対話をして欲しい」,そして,「身近な友だちにも,本当は当事者がいると知って欲しい」と思い,このタイトルに決めました。実は,この本を出版した時に,LGBTQの本と言いながら,何でタイトルで「ゲイ」だけを取り上げているのかという批判も数多くいただきました。
― 本の中で,左利きの人の割合との比較が出てきて面白いなと思いましたが,それらを取り上げた理由は何ですか。
松中さん LGBTQについて知っていただく際に,よく例えられるものとして紹介しました。とにかく,自分にとって身近な存在であり,テレビや映画の中だけにいる人ではないと感じてもらうことが大切だと思っています。
― 本の中で,「自分へのカミングアウト」「家族へのカミングアウト」「社会へのカミングアウト」とありますが,それぞれどういう意味で,松中さんにとってどういうことだったのかを教えてください。まずは,「自分へのカミングアウト」について。
松中さん 多くの人は,LGBTQに対して嫌悪感(フォビア)というものをもっていて,それが差別・偏見の原因なのですが,実は,そのフォビアは当事者の中にもいつの間にか埋まってしまっている,と言われています。それを,フォビアの内在化といいます。私自身も,辞書で「異常」という文字を見つけてしまってから,ずっと抱えていました(現在は,異常性愛という表現は削除されています)。「自分へのカミングアウト」とは,そのフォビアを溶かしていくプロセス,自分自身で自分のことを受容し,自己肯定ができるようになることだと思っています。私がそれを乗り越えたのは,大学4年生の冬に,初めて新宿2丁目にいって,友人ができた時でした。みんなと変わらない“ふつう”の人達が,“ふつう”に楽しそうにお酒を飲んで,ゲイであることを当たり前に,会話をしていることを目にした時でした。その時に,自分は自分でいいんだと思えたのです。
― 「家族へのカミングアウト」について。
松中さん 兄に対しては,「自分へのカミングアウト」を終えた留学の前のタイミングでしました。弟に対しては,自分が電通に勤めていた頃で,弟が就職し社会人になる時に伝えました。 両親に対しては,高齢の両親がショックを受け悲しむのではないか,両親の自分に対する期待や思いが裏切ることになるのではないか,また,(カミングアウトした後に)親が親自身の周りに対して自分がゲイであることを隠す苦労を背負わせてしまうのではないか,などの葛藤が重なり,なかなかカミングアウトすることはできませんでした。2012年頃,大学教授をしていた父親が退職した後にパソコンを購入し,いろいろ検索を始めたのです。「松中権」と検索するとLGBTQの活動がたくさんヒットすることを知り,これは自分から両親に早く伝えなくては,と決意しました。
― 「社会へのカミングアウト」について。
松中さん 2008年にニューヨークに行ったのがきっかけです。オーストラリアに留学していたころは,カミングアウトをして,のびのび生きていたのに,その当時の自分は何をしているんだろうと日々思っていました。そんな時に,自分の人生を歩むために,ニューヨークで仕事をする機会がありました。そして,現地では,カミングアウトして働いていました。NPOとかNGOとかのプロデュースする業務をしていたこともあり,帰国後,2010年4月4日にNPO法人「グット・エイジング・エールズ」立ち上げ,職場の同僚たちに自分がゲイであることを伝える,そして,メディアでのインタビューに答えるなどの社会的なカミングアウトをしました。
― 4月4日というのは意味があるのですか。
松中さん 4月4日というのは,社会が,一方的に男性らしさや女性らしさを押しつけているかもしれない3月3日のひな祭りでも5月5日の子どもの日でもなく,多くの人に「性の多様性」について考えてもらいたいという願いを込めて,その間の日として選んだという意味があります。
― その後の松中さんの活動は?
松中さん 2012年に両親へのカミングアウトができた後に,両親とのコミュニケーションの時間も取れるようになり,社会的に発信していくことへの大きな不安がひとつなくなりました。また,その頃から,会社員として働きながらLGBTQの活動をしている,そんな自分だからこそ社会に伝えていけることがあるのではないかというミッションも感じるようになり,積極的に,社会的に発信をするようになっていきました。
― 松中さんが,本やウェブサイト上で,電通時代に経験したホンダの社員の方の話がとても印象的でした。その時の出来事を教えてください。
松中さん 電通の取引先で会ったホンダの研究所の方が,生まれた時に割り当てられた性別とは違う性別で生きていくことをカミングアウトされたことがありました。ある日突然,電通の人が集められて,ホンダの方から,その方が今日から女性として生活し,働くことを伝えられ,ぜひ応援して欲しい旨を伝えられました。その当時は,LGBTQという言葉もなかったような社会だったので,びっくりしましたし,同時にひとりの当事者として勇気をいただきました。
― 松中さんが社会的な活動をするなかで,LGBTQに関して,どのような変化が起こってきましたか。
松中さん まず,2012年から16年あたりにかけて,社会のLGBTQに対する見方や,社会の流れが変わっていくことを強く感じました。周りの仲間も自分自身の問題だけに取り組むのではなく,社会的な発信を強く意識するようになっていきました。私たちも「irodori / カラフルステーション」というレストラン兼コミュニティスペースを渋谷区神宮前で共同にて始めたことで,ネットワークが広がっていき,その結果,社会におけるムーブメントにも関わることが増えてきました。渋谷区・世田谷区におけるパートナーシップ制度の導入や,自分自身の本の出版も,その流れの中で位置づけられると思います。
― その後,2017年に電通を退職されましたね。電通にいながら,自身の活動をすることもありだったのかなって思いますが。なぜ辞めたのですか。
松中さん
退職したのは,一橋大学アウティング事件がきっかけです。
この事件を知る前まで,仲間とともに,LGBTQの活動をとても楽しんでいました。また,当時電通で行っていた,多様性を認めていこうというメッセージを世の中に発信するオリンピック関連の業務についても,ゲイでありLGBTQの活動をしてきたという自分の経歴が役に立っていて,充実感がありました。どんな活動も楽しく,嬉しくできていた時期でした。
業務の一環としてブラジルのリオ・デ・ジャネイロに出張し,日本政府がリオ・オリンピックに関連して日本を広報するためのジャパンハウスを立ち上げた,まさにその日の夜明けに,一橋大学アウティング事件を目のあたりにすることになりました。とてもショックでした。その事件を,自分に重ねた時に,とても胸が苦しくなりました。もしかしたら,自分自身も命を落とす可能性がこれまでの人生にもあったのではないか,そう感じました。この出来事を機に,二足のわらじを履いて,楽しんで活動しているだけでは駄目だなと自分自身で思うようになり,権利の擁護や法制度等を整備していくための活動が必要だと思い,電通を辞めて,新たな活動をしていくことにしました。
― 新しいステップとなりましたが,まずは何をしたのですか。
松中さん 自分が電通を辞めたタイミングで,我々のフォビアの源泉でもあった「保毛尾田保毛男」がテレビ番組で30年ぶりに復活しました。そのことに強い憤りを覚えるとともに,同じような繰り返しがあってはならないと思い,フジテレビに対して抗議文を送付しました。フジテレビ側も社長が謝罪することに至りました。
― それ以外はどのような活動を?
松中さん
4つメインの活動を柱にしようと考えました。
具体的には,①LGBTQに関して,権利擁護のための活動や法制度を構築していくための活動,②地元の金沢でのLGBTQの認知度を向上させるための活動,③一橋大学の学生のための活動,④2020年のオリパラに向けての活動です。それぞれ,①なくそう!SOGIハラ実行委員会(sogihara.com),②LGBTと教育フォーラム(現在は,金沢レインボープライド),③一橋大学卒業生有志団体Pride
Bridge,④プライドハウス東京として活動しています。
さらに,公益社団法人Marriage For All Japanの理事として,同性婚訴訟等の活動も初めました。
― LGBTQについての日本の動きについて,教えてください。それらはどう評価されていますか。
松中さん 経済協力開発機構(OECD)の「LGBTIを含む法律と政策に関するアンケート(2019年)」によると,LGBTQの法制度をめぐる状況は,OECDワースト2位です(ワースト1位がトルコ,3位が韓国)。差別禁止法及び同性婚の法制度がないこと,トランスジェンダーに関する法律が厳しい条件を課していることなどが主な理由です。世界の潮流から見ると,日本は遅れていると思います。
― 松中さんの活動に弁護士はどのように関わっていますか。
松中さん 色々な点で弁護士さんとは接点があります。自分自身の件ももちろんですし,LGBTQの活動をしている団体においても様々な接点があります。特にMarriage For All Japanの活動の弁護団にはたくさんの弁護士さんが参加していることもあり多くの接点があります。
― 様々な活動を通じて,様々な弁護士と接することで,弁護士に対する印象はどんなものですか。
松中さん 私が関わっている弁護士さんは,マイノリティに対しての視点も有しており,いろいろと共有できるものが多いなと思っています。また,みんな熱心にLGBTQの活動に参加,協力してくれています。
― 今後の目標,やりたいこと,抱負を教えて下さい。
松中さん
まずは,今やっていることをきちんと継続していきたいです。
また,今の問題意識として,LGBTQに関しても,東京と地方とでギャップが大きくあると感じています。そのギャップを埋めていくため,今後は,地元の金沢で精力的に活動していきたいなという強い思いがあります。
― 今後も社会的な活動を通じて,個人がその違いを超えて,互いにrespectしあえる社会を広げていっていただきたいと思います。