従前「わたしと司法」と題しインタビュー記事を掲載しておりましたが,このたび司法の枠にとらわれず,様々な分野で活躍される方の人となり,お考え等を伺うために,会報広報委員会が色々な場所へ出向くという新企画「関弁連がゆく」を始めることとなりました。
元トップリーグ(現リーグワン)ラグビー選手
川西 智治さん
今月号の「関弁連がゆく」は、元トップリーグ(現在のリーグワンの前身)ラグビー選手 川西智治さんです。
川西さんは、流通経済大学柏高校からラグビーを始め、進学した流通経済大学ではキャプンテンに就任し、大学卒業後は、トップリーグのチームでプレーされました。トップリーグ選手であった際に、潰瘍性大腸炎に罹患、発症したものの、プレーを続け、2021年に引退されました。引退後は、日常の業務の他に、ご自身の経験をもとに、社会に対して、潰瘍性大腸炎に対する理解を広げてもらう活動も行っています。今回のインタビューでは、ご自身の経歴、トップリーグでの活動、潰瘍性大腸炎の経緯、その際に感じたこと、現在の状況、今後の目標についてお話を伺いました。
※ 潰瘍性大腸炎とは、大腸の粘膜に炎症が起こることにより下痢や腹痛、血便などの症状が現れる病気のことで、「難病の患者に対する医療等に関する法律」(平成26年法律第50号)に基づき指定される、指定難病の1つです。元内閣総理大臣安倍晋三氏が患っていたことで、広く社会に知れ渡りました。
― ご出身などを教えていただけますか。
川西さん もともと、千葉県松戸市出身です。父と母、姉と兄の5人家族のもと、育ちました。
― ラグビーを始めたのはいつですか。
川西さん
流通経済大学柏高校入学と同時にラグビーを始めました。
もともと、幼稚園から空手をはじめていて、中学校でも続けていました。空手の他に、小学校時代は少年野球と水泳を、中学校時代はバスケットボールをしていました。小さい頃から、将来は、総合格闘家になりたいという思いがありましたし、部活と言えば球技だという考えをもっていました。中学校時代に、そんな話を中学校の先生にしたところ、それなら、「ラグビーがいいのではないか」と勧められ、ラグビーに挑戦することになりました。
― 高校でラグビーを始めてみて、実際どうでしたか。
川西さん 入部した第一感としては、流通経済大学柏高校はラグビーの強豪校であったので、先輩や部の雰囲気がとてもかっこいいと思いましたし、そこに所属できたことを誇らしく思いました。
― ポジションはどこでしたか。
川西さん 始めたときからずっとフッカーでした。背番号は2番です(※フォワードの最前列にてスクラムを組み、ラインアウトではスローワーを務めることが多い、第二のナンバーエイトとも呼ばれ、豊富な運動量やアタック・ディフェンスで強いプレーが求められるポジション、日本代表では堀江翔太選手が同じポジション。)。
― ラグビー部の練習はどんな感じでしたか。
川西さん
当初20人くらいの新入部員で半分は経験者でした。僕は未経験者だったので、最初は未経験者の練習メニューを必死にこなしているような状況でした。あまり期待もされておらず、むしろ雑用係でした。ただ、練習をひたむきに頑張っていたこともあり、3年生が引退して新チームになったときには、リザーブチームのメンバーになることができました。その後、スタメンの先輩が怪我をしてしまったので、一気にレギュラーに抜擢されることになりました。
レギュラーになったことは嬉しかったのですが、ここからが大変でした。最初の頃は、自分が周りの人の足をひっぱっているような状況で、自分が練習メニューをこなせなければ周りの人も練習が終わらないということが日常的に発生しており、とてもつらかったです。そんな思いをしながらも練習を頑張って続けていたら、上達して、求められているラグビーにもフィットするようになっていきました。実際に、高校2年生では、U17の関東代表に選ばれ、高校3年生では高校日本代表にも選ばれました。
― 流通経済大学柏高校卒業後、流通経済大学でラグビーを続けたのですね。
川西さん
はい。流通経済大学入学の前にU19代表候補になり、U19世界大会に出場するつもりでしたが、最終選考で肩を脱臼してしまい、選ばれませんでした。
そのため、入学当初は怪我スタートでした。その後、夏頃に復帰したのですが、復帰してすぐに膝を怪我してしまいました。その後、完全に復帰したのは11月くらいになっていました。この頃の自分は、今にして思うと、自身の気持ちがだらけていましたし、実際にその点をチームメートから指摘されたこともありました。その時に、そんなんじゃいけないと思い、これまでのラグビーに対する姿勢や学校生活についても、心を入れ替え、取り組みを始めました。その結果、8軍から1軍まで一気に駆け上がり、ベンチ入りするまでになりました。
今振りかえっても、心を入れ替えて行動を変えることで、成果が得られるという貴重な経験だったと感じています。
― 大学2年生になって以降はどんなラグビー生活だったのですか。
川西さん 大学2年及び3年生の時は、時々、怪我をしたこともあり、ずっとフッカーでレギュラーとしてリーグ戦に出場していました。
― その後、大学4年生では、キャプテンだったのですよね。
川西さん
はい。監督から指名を受けたので、キャプテンとなりました。
キャプテンは、150人くらいの部員を統制する立場です。150名も部員がいれば、日々何らかの問題が発生します。自分自身が、大学3年終了時に膝の手術をしたこともあり、プレーで引っ張ることもできず、なかなか大変な立場でした。
― 大学時代を振り返ってみて1番印象的なことは?
川西さん 大学時代、自分の2個上、1個下の同じフッカーのポジションの選手がライバルでした。この2人ともとても有力な選手でして、実際に卒業後はトップリーグでプレーしていました。このような有力なライバルが同じ大学内にいたおかげで、自身も、心身共に成長できたと思っています。
― その後、トップリーグチームに入られますよね。トップリーグを目指したのはいつ頃からですか。
川西さん 大学時代、順調にラグビーを続けていれば、トップリーグでプレーすることになるのかなという思いで、頑張ってプレーしていました。活躍しようと毎日練習に取り組み、試合では、全力でプレーすることを続けていました。そうしたら、実際に、トップリーグのいくつかのチームのスカウトから声がかかり、トップリーグチームに入団することになりました。
― トップリーグ一部のチームに入った時の印象は?
川西さん レベルが高いし、凄い選手ばっかりとの印象を受けました。また、社会人になったこともあり、規律も厳しかったですね。仕事との両立も大変でした。1年目から23名のメンバーには入れていましたが、1、2年目は、スタメンで試合に出場するということは1回もありませんでした。
― 潰瘍性大腸炎に罹患したのが発覚したのはいつですか。
川西さん 社会人2年目の7月に、発覚しました。夏合宿中のある朝、いつものようにトイレに行くと、便器が、血で赤く染まりました。腹痛もなく体調はいつも通りでした。合宿終了後に病院へ行くと「潰瘍性大腸炎」と診断されました。ただ、この時は「ただ血便が出るくらいだろう」と軽く考えていたので、処方された薬も飲んだり飲まなかったりで、特に大きな変化はなく、普通にラグビーをしていました。
― その後、潰瘍性大腸炎が悪化されたのですか。
川西さん はい。試合にも出場できるようになり、順調に結果が出始めた3年目、ここからが勝負というところで、再び血便が出るようになりました。この時は、腹痛の回数も排便の回数も増え、自分でもいつ便意に襲われるか分からない状況でした。さすがにおかしいと思って病院へ行くと、以前よりも炎症が悪化していました。
― この際にはどんな治療をしたのですか。
川西さん
この時、医師からは、入院するか、副腎皮質ステロイド薬での治療を勧められました。しかし、入院するとラグビーはできないし、また、できれば副腎皮質ステロイド薬も避けたい。
そこで、血球成分除去治療を行うことにしました。人工透析のような治療で、血液の中から異常に活性化した白血球を取り除き、再び体に戻す方法です。週2回×5週間の全10回で、1回につき2時間ほどを要します。僕の場合、8回目から効果が出始めたのですが、血便と便意との闘いは続きました。ただ、この時の治療の効果は少なく、病気は進行していってしまいました。
― 総括すると、3年目はどんなシーズンだったのですか。
川西さん 治療しながらラグビーをしていたシーズンでした。ラグビーでは、適切な栄養を摂り、強靱な体を作らなければいけないのに、病気で十分な栄養摂取ができなかったので、体重と筋肉が減って怪我が増えました。せっかくチャンスを掴んだシーズンだったにも関わらず、最後は左足首を脱臼骨折し、手術するということで幕を閉じました。
― その後、症状はどうなりましたか。ラグビーへの影響はありましたか。
川西さん 左足首の怪我からの復帰に際して、絶対にパワーアップして復帰し、日本代表にも選ばれるくらい活躍しようという、そんな強い気持ちでリハビリを5か月続けていました。その頃には、病気の状態も落ち着き、体もビックリするくらい大きく仕上がりました。しかし、2か月あまりの松葉杖生活を終え、ようやくジョギングを始めたその夜、走れるうれしさを吹き飛ばす悪夢がやってきました。激痛を伴う下痢です。トイレと寝室を何度も往復し、ついには便座に腰掛けたまま朝まで過ごしたほどです。全身が疲労しきって、食事は喉を通りませんでした。練習をしようと、グランドに行ったものの、僕の顔色を見たトレーナーに帰宅するよう言われました。翌日も症状が変わらず、病院へ行くと緊急入院を命ぜられました。
― この時はどのような治療をしたのですか。
川西さん 緊急入院となって、この入院中は血球成分除去治療に加え、副腎皮質ステロイド薬を投与され、免疫抑制剤も処方されました。この病気は血液中の白血球が異常に増えるため、抑制する必要があります。また、最も効果がある治療でもある絶食もしました。
― どんな気持ちになりましたか。
川西さん 僕にとっては、最も過酷な時期でした。ラグビー選手にとっては自分の体が武器であり、命を守る防具でもあるので、適切な食事を摂って丈夫な体を維持することは欠かせないからです。しかも、僕はフッカーというポジションで、最前列のど真ん中でスクラムを組むため、100キロ近い体重をキープしなければなりません。それまで作った体が、絶食で崩れていくことは本当に辛い経験でした。怪我から回復し、夢にまで見たジョギングまでこぎ着けたのに、2日後には緊急入院という繰り返し。その時に、頭の中が真っ白になりましたが、当時のチームメートからの励ましもあり、治療に専念しました。2週間の絶食を経て退院する頃には、体重は17キロも減少してしまいました。鏡に映る自分の姿は筋肉がすっかり落ちてしまっていて、まるで、自分ではないようでした。
― ご家族には潰瘍性大腸炎の話をされたのですか。
川西さん 潰瘍性大腸炎の症状が落ち着いた頃、千葉の実家に戻り、病気や入院の経緯を報告すると、なんと母親も同じ病気を持っていることを知りました。この際に、母はショックを受けたようですが「治る病気ではないけど、うまく付き合っていけばいい」とアドバイスをくれました。
― その後の症状はどうなりましたか。
川西さん この頃、主治医の先生の紹介で、千葉県にある東邦大学医療センター佐倉病院の先生にセカンドオピニオンを伺いました。その先生は潰瘍性大腸炎の治療における第一人者で、偶然にもラグビーをこよなく愛する方でした。ラグビーを続けながら行える治療について、いろいろとアドバイスをいただき、そのおかげで、トップリーグラグビー選手と同様に、ラグビーを続けることができました。
― 潰瘍性大腸炎になってご自身の心境に変化はありましたか。
川西さん
潰瘍性大腸炎と向き合うようになって、ラグビーをプレーする上でも考え方に変化がおきました。それまでは「努力は必ず報われる」と思っていましたが、発病後は「考えて努力する」ことを意識するようになりました。同じ努力をするにしても、自分の必要なことをしっかり理解していなければ、効果は半減してしまいます。ラグビーの練習についても、ただ単に練習をして追い込むのではなく、時には休んだり強度を落としたりすることもまた、同じくらい大切な選択肢だということを知りました。こういった考え方の変化がなければ、34歳まで現役を続けられたことはなかったと思います。
また、この病気で失ったもの、味わった悔しさや辛さは、僕を大きく成長させてくれました。同時に、僕には家族、友人、会社、チーム、医療関係の皆さんの温かいサポートがあることも知ることができました。
― 潰瘍性大腸炎について、2020年に世間に公表されましたが、どんな理由から公表されたのですか。
川西さん 僕自身がつらい経験をしましたが、僕以外にも、人には言えず苦しんでいる潰瘍性大腸炎の患者さんは多かったです。また、僕と同じ病気を持つ人だけではなく、誰しもが、人には言えない悩みや理解されない辛さを抱えているのではないかと思いました。そして、僕が、潰瘍性大腸炎について、公表をすることをきっかけとして、社会の潰瘍性大腸炎に対する理解が深まり、また同じ病気を持つ患者さんを少しでも勇気づけられればと思い、公表することを決断しました。
― 公表した反響はどうでしたか。
川西さん チームのメンバー、他のチームのラグビー選手、ファンの方々から、多くのリアクションをいただきました。「知らなかったです。」「まさか」とという反応から、「励まされた」という声も数多くいただきました。特に、同じ病気の方々から、「勇気をもらった」という声を多くいただきました。それらの声を聞いて、とても嬉しく思い、胸が熱くなるとともに、公表して良かったなと感じました。
― 2021年に現役を引退されましたが、それ以降、潰瘍性大腸炎に関しては何か活動をされてますか。
川西さん 講演の機会をいただくこともあり、自分の経験を世間の皆さんに伝えさせてもらっています。また、取材のご依頼についても積極的に対応をしています。
― 弁護士一般にはどのような印象をお持ちですか。
川西さん これまでは、トラブルがあったときに依頼をする方々であり、関わりがない方がいい人という印象でした。最近、弁護士の知り合いができたことにより、身近にいると、とても頼れる存在な方々だと、今では思っています。
― 今後の目標を教えてください。
川西さん 引退するまではラグビー選手として、プロアスリートとして活動をしてきましたが、引退したことで、生活が180度変わりました。その中で、これまでと違うことや慣れないことがいっぱい起きていますが、これらについて、乗り越えていって、成長をしていきたいです。また、その中で、新しい目標や夢を見つけ、それに向けてチャレンジしていきたいです。
― 今後も自分なりのチャレンジをしていただき、多くの方に勇気を与えていただくことを期待しています。