従前「わたしと司法」と題しインタビュー記事を掲載しておりましたが,このたび司法の枠にとらわれず,様々な分野で活躍される方の人となり,お考え等を伺うために,会報広報委員会が色々な場所へ出向くという新企画「関弁連がゆく」を始めることとなりました。
棋士
小山 怜央さん
今回の「関弁連がゆく」は、2023年2月に棋士編入試験(※)に合格して、棋士になられた小山怜央さんです。将棋の棋士になるには養成機関の奨励会に入会するのが通常ですが、小山さんは一度も奨励会を経験せずに棋士になられた戦後初の棋士であり、また、岩手県初の棋士でもあります。そんな初めて尽くしの快挙を達成された小山さんでしたが、決して平坦な道のりではありませんでした。中学、大学時代の二度にわたる奨励会の不合格、高校時代の東日本大震災による避難所生活、社会人時代の新型コロナによるアマ棋戦の激減など様々な苦難に遭われましたが、小山さんはどんな状況でも決して悲観せずに、前向きに将棋と向き会って棋士になる夢を実現されました。幾多の苦難を乗り越えて偉業を達成されたにもかかわらず、苦労を苦労と感じさせない淡々とした語り口が印象的で、そこに小山さんの並外れた精神力の強さを感じました。今回は棋士になるまでの様々なご経験についてお話を伺いました。
【※棋士編入試験】 棋士になるには通常、奨励会三段リーグの上位2名に入って四段に昇段する必要があるが、棋士編入試験とは、合格すると三段リーグを経ることなく四段(プロ)になることができる2014年に制度化された試験のこと。主要アマ棋戦で上位に入るとプロ公式戦に出場できるが、公式戦で「10勝以上かつ勝率6割5分以上」という成績で受験資格が与えられる。試験では新人棋士5名と対戦し、3勝すると棋士になることができる。
― 棋士編入試験の合格おめでとうございます。まずは棋士になられた率直な感想をお聞かせください。
小山さん 長い間プロを目指してきましたが、それが達成できたという安心感で本当にホッとしました。憧れの棋士になれたことに不思議な気持ちもあります。
― 奨励会を経験せずに棋士になるのは非常に難しいことだと思いますが、ご自身はどう思われますか。
小山さん 私自身、特別感はあまりありません。最近はネット将棋や将棋AIの普及等で奨励会に行かなくても勉強の環境が整ってきていますし、アマでも強い方が多いのでいずれはプロが誕生するのではないかと思っていました。
― でも羽生先生も仰っていましたが奨励会未経験で棋士になるのは本当に難しいことで快挙だと思います。さて子供の頃のお話を伺いますが将棋を始めたきっかけを教えてください。
小山さん 小学2年生の時、ゲームボーイに夢中になり過ぎて吐き気やめまいがして2週間ほど入院したんです。それで家族が心配してゲームの代わりに頭を使う将棋を勧められたのがきっかけですね。
― すごいきっかけですね。将棋はどのように勉強をされたんですか。
小山さん 最初は家族と指す程度だったのですが、将棋教室に通うようになって、自分よりちょっと強い相手と指すのが楽しくて将棋に熱中しました。将棋教室の先生の講座を聞いたり、他の生徒と対局したりして勉強しましたが、しばらくしてネット対局もするようになりました。
― 中学3年生で奨励会を受験されていますが、いつ頃受験を決意されたのですか。
小山さん 結構直前で中2の終わりか中3になってからだと思います。プロになりたい気持ちがあって、年齢的にギリギリでしたので受験を決意しました。
― 残念ながら奨励会は不合格となりましたが感想はいかがでしたか。
小山さん 実力を出し切れなかったので悔いが残りました。普段の実力を出し切れていれば、いいところまでいけると思っていましたので心残りがありました。
― 奨励会に落ちてプロという目標がなくなりましたが将棋をやめようとは思いませんでしたか。
小山さん 将棋の大会に出るのが凄く楽しかったので、やめようとは全く思いませんでした。優勝すると凄く嬉しくて、優勝を目指して大会で頑張りたいと思って将棋を続けました。
― 岩手県立釜石高校に進学されましたが、なんと高校1年生で朝日アマ選手権の岩手県予選で優勝され、全国大会でもベスト8に入られています。これは快挙ですね。
小山さん ありがとうございます。確かに今思うと快進撃ですね。実力以上のものが出せたんだと思います。
― 小山先生が高校2年生の時に東日本大震災が起きました。釜石市でも甚大な被害が生じましたが小山先生はどちらにいらっしゃったのですか。
小山さん 高校の教室にいました。ガラスが割れたりはしなかったんですが、それまで経験したことのないような長くて激しい揺れでした。全体的に揺れるような嫌な揺れ方でしたので不吉な予感がしました。
― ご家族はどうされていたのですか。
小山さん 家族は別々でしたが、父は職場にいて普通に避難して無事でした。弟は当時中学生で海岸の近くにいたのですが、仲間と逃げて幸いにも助かりました。母は自宅にいて家ごと津波に流されました。1kmくらい家が流されたそうですが、母は屋根の隙間から自力で脱出して救助されたそうです。家族全員が助かったのは奇跡でした。
― ご家族とはいつ頃再会されたのですか。
小山さん 釜石高校の体育館が避難所になったんですが、地震の2日後位に避難所で家族全員と会えました。地震の映像を見たのが結構後だったので津波で家が流されたと聞いても信じられない気持ちでした。家は失いましたが家族が無事でいてくれたのが何よりで、それで気持ちが救われました。
― 避難所生活は大変ではありませんでしたか。
小山さん 避難所では家族ごとに区画が割り当てられていたのですが、距離が近かったため、プライバシーが余りありませんでした。それで少し疲れることもありましたが皆さんが想像するほど辛い生活ではありませんでした。避難所でも将棋を指していたのですが、それが気分転換になりました。
― テレビ番組で、避難所で弟さんと将棋を指している小山先生の写真が紹介されたのですが、一心不乱に盤に向かわれているお二人の姿が印象に残っています。避難所ではよく将棋を指されたのですか。
小山さん 高校から将棋盤を借りてきて弟と指したこともあったと思います。少し経って避難所に共用のパソコンが設置されたのですが、それを使わせていただいてネット将棋もやっていました。途中からは父がノートパソコンを購入したので、それを借りて対局することもありました。
避難所で弟さんと将棋を指す小山さん(左)
― 将棋のお仲間がお見舞いに来てくれたこともあったそうですね。
小山さん 将棋関係のネット掲示板で、私たち家族が無事ということを知って、将棋でお世話になった方々が遠くからわざわざ避難所まで来てくださいました。お見舞いをいただいたり、将棋を指していただいたりして励ましていただきましたが、そのことが本当にありがたくて、心から感謝しています。
― 大変なご苦労があったと思いますが、被災される前と後でお気持ちに変化はありましたか。
小山さん 一番大きな変化は、普段当たり前だと思っていたことに対して感謝の気持ちが湧くようになったことです。被災して突然何が起きるかわからないということを思い知らされ、これまでの生活が当たり前でなかったことを痛感しました。震災後は感謝の気持ちを持って生きることができていると思います。
― 避難生活はどのくらい続きましたか。
小山さん 避難所は5か月程だったと思いますが、それから仮設住宅に移りました。私自身は大学に進学して一人暮らしを始めたので、仮設住宅での生活は半年くらいだったと思いますが、家族は5年程仮設住宅で生活していました。
― 大学は地元の岩手県立大学に進学されていますが、そうすると小山先生は避難所や仮設住宅で生活をして、将棋の勉強もしながら受験勉強をして国公立大学に現役合格されたということでしょうか。
小山さん そうですね。今思うと結構大変な時期でしたね。
― その大学時代で特筆すべきことは、4年生の時にアマ棋戦最高峰の「アマ名人」というビッグタイトルを獲得されたことです。
小山さん アマ名人になった時は本当にびっくりしました。それまであまり上位にもいけずに優勝争いをしたこともなかったので突然の優勝で驚きました。
― アマ名人になると奨励会三段リーグ編入試験(※主要アマ大会の優勝者に受験資格が与えられ、合格者は三段リーグに4期在籍できる。合格ラインが8戦で6勝と厳しく、過去合格者は今泉健司五段の1名のみ)の受験資格が与えられます。小山先生は2016年に三段リーグ編入試験を受験されていますが、受験の経緯について教えてください。
小山さん アマ名人になった直後は予想外の出来事であまりプロ入りのことを考える余裕はありませんでした。しかし少し時間をかけて考えた結果、もしプロになるチャンスが少しでもあるなら挑戦してみたいと思い、受験を決意しました。
― 三段リーグ編入試験も非常に厳しい試験で、小山先生は残念ながら不合格となりました。中学時代に続いて再び奨励会の壁に阻まれましたが、どのような感想を持たれましたか。
小山さん 悔しい気持ちもありましたが結果は実力通りだと感じました。アマ大会とは全く異なる雰囲気でしたし、待ち時間や奨励会の雰囲気など、さまざまな条件が異なり、自分にはまだ足りないものが沢山あることを痛感しました。
― アマ名人でも三段リーグに入れないと伺って、厳しい世界だと改めて感じました。さて大学卒業後はリコーの関連会社に入社され、リコー将棋部に所属されています。大変な強豪チームですが将棋部での思い出についてお聞かせ下さい。
小山さん 将棋部では「職団戦」(※同じ職場の5人のチームによる将棋の団体戦で、2000人以上が参加する日本で一番大きなアマの大会)がメインになるんですが、その大会が入社して直ぐの研修と被ってしまって、入社わずか数週間でいきなり会社を休ませてもらいました(笑)。その大会の決勝では2勝2敗で私の対局が残るという展開になったのですが、何とか勝つことができてチームの優勝に貢献することが出来ました。それが忘れられない思い出ですね。
― 社会人としてアマ棋戦やプロ公式戦で活躍されていましたが、2020年に新型コロナの流行でアマ棋戦が次々に中止になりました。プロ公式戦に出場するにはアマ棋戦での活躍が必要ですのでプロ公式戦に出場すること自体大変な状況だったかと思います。新型コロナの影響はいかがでしたか。
小山さん 想像以上にアマ棋戦が開催されない期間が長引いてしまって、それは痛かったですね。ただコロナの流行で在宅勤務が増えて、通勤時間がなくなった分、将棋の勉強時間が増えました。
― 2021年4月に会社を退社されていますが、退社を決意されたのはどうしてでしょうか。
小山さん コロナ禍ではありましたが出場できたプロ公式戦での白星が増えて、棋士編入試験を狙えるところまできました。プロを目指す最後のチャンスだと思いましたので、勉強時間を増やして挑戦してみたいと思いました。また純粋に強くなって自分自身成長してみたいという思いもありましたので退職を決意しました。
― 退職される直前辺りから急激にプロ公式戦の勝ち星が増えていますが、理由は何でしょうか。
小山さん 偶然だと思いますが、コロナの影響で将棋の勉強時間が増えたことは大きかったと思います。
― その後、白星を重ねられ、2022年9月に中川大輔八段に勝利して念願の棋士編入試験の受験資格を獲得されました。お気持ちはいかがでしたか。
小山さん 正直なところホッとしました。負けたら再び長い戦いが始まるわけですから、嬉しいというよりはホッとしましたね。
― さて編入試験は3勝1敗で見事合格されましたが、内容も素晴らかったです。初戦の徳田拳士四段は勝率9割弱の驚異の新人で、編入試験最大の強敵だと思いました。大事な初戦をどのようなお気持ちで臨まれましたか。
小山さん 確かに徳田先生の勝率の高さは異常だと思ったんですけど、相手の強さを気にせずに正面から立ち向かっていこうと考えていました。相手が強いからといって自分の将棋を変えないようにと思っていました。
― お言葉通り、最新の戦形で堂々と真正面から戦われて見事勝利されました。特に終盤の寄せが圧巻で、多くの棋士からも高く評価されていました。さて第二戦の岡部怜央四段にも勝利され、狩山幹生四段との第三戦は勝てばプロ入りという大一番でしたが残念ながら敗戦となりました。どうやって気持ちを切り替えたのですか。
小山さん 編入試験中は気分転換が出来ていなかったと思います。「第四局に勝てば終わる」、「あと1か月の辛抱だ」と自分に言い聞かせて、根性で乗り切ったような感じです。
― プロ入りを決めた横山友紀四段との第四戦は、かなり有利に進められていましたが小山先生にミスが出て形勢が混沌とした局面がありました。どういう心境でしたか。
小山さん ミスをして、結構やらかしてしまったという思いはありましたが、それまで勝勢に近い形勢でしたので、まだ逆転されていないという感覚がありました。丁寧に指せばまだ優勢だから冷静に指そうと思って対局していました。
― 横山四段に勝利されて、奨励会未経験の戦後初の棋士で、かつ、岩手県初の棋士の誕生となりました。岩手県では小山先生の四段昇段を祝して、テレビ特番が放送されたり、知事が祝賀会に出席されたりと大変な盛り上がりだったそうですね。
小山さん 岩手に帰郷したのは3月後半で編入試験終了後1か月以上経ってからでしたが、皆さんからの歓迎は予想以上でとても驚きました。地元の方々からのサポートは本当にありがたかったです。
― 念願の棋士になられましたが、小山先生は今後どういう棋士になりたいですか。
小山さん 岩手県初の棋士ということもありますし、これからは人に見られる機会も多いと思いますので、将棋の強さだけでなく、人間的にも尊敬される棋士になりたいです。あと、私が被災した時に色々な方にお世話になりましたが、その恩は決して忘れません。地元のイベントには積極的に参加したいですし、少しでも恩返しをしたいと思っています。
― お話を伺って小山先生には尊敬しかありません。ご苦労をされた小山先生だからこそ是非タイトルを獲っていただいて奨励会の経験のない史上初のタイトルホルダーになっていただきたいです。本日はありがとうございました。