関東弁護士会連合会は,関東甲信越の各県と静岡県にある13の弁護士会によって構成されている連合体です。

「関弁連がゆく」(「わたしと司法」改め)

従前「わたしと司法」と題しインタビュー記事を掲載しておりましたが,このたび司法の枠にとらわれず,様々な分野で活躍される方の人となり,お考え等を伺うために,会報広報委員会が色々な場所へ出向くという新企画「関弁連がゆく」を始めることとなりました。

写真

俳優
相島 一之さん

とき
2024年2月
ところ
都内某所
インタビュアー
会報広報委員会委員長 小南あかり

今回の「関弁連がゆく」は、俳優の相島一之さんです。相島さんは、舞台、テレビドラマ、映画とジャンルを問わずに多数の作品に出演されており、俳優として多くの方の記憶に刻まれていると思います。相島さんは、弁護士になろうと考えて20歳の時に立教大学の法学部に入学されていますが、演劇の世界に入ったのも20歳の時だということです。また、現在は「相島一之&The Blues Jumpers」というブルース・ロックバンドで音楽活動もされています(歌とハーモニカ担当)。今回は、相島さんが演劇の世界に入ったきっかけや、プロの俳優になるまでの経緯を中心にお伺いしました。

相島さんが役者の世界に入ったのは20歳のときということですが、どのようなきっかけがあったのでしょうか。

相島さん 大学1年のときに、演劇サークルに入っていた同級生に誘われたのが最初のきっかけですね。

もともと役者の世界に興味はあったのですか。

相島さん なかったです。僕は高校は地元の進学校に行ったんですが、そこで完全にドロップアウトして、人間はなぜ生きるんだろうか、生きる目的とはなんだろうか、人を愛するってどういうことだろうかとか、そんなことを考えて、結局答えなんか出るわけがないからじゃあ生きる意味はないんだっていう風に当時考えて、結構危なかったんですよね。そんな考えをどうにかクリアして、将来は弁護士になってミステリー小説を書こうと思って、それで、2年浪人して立教大学の法学部に入ったんです。

小説家になるために法学部に入ったということでしょうか!?

相島さん はい。昭和の作家なんですが弁護士の資格を持っている推理作家がいて、当時僕はそれにあこがれて、まず司法試験受かって弁護士になって、それで世の中を見て、それから小説を書こうって。大学入ってから司法試験を受験するためにダブルスクールもしたんですけど、ひと月くらいで合わないなと思ってやめたんです。学費を全部ドブに捨ててひどいでしょ。

その後はどんな大学生活を過ごされたんですか。

相島さん 当時はとんがっていたので、女の子も男の子もなんかキラキラした大学の雰囲気が嫌いだったんですよ。最初に立教の文学サークルを訪ねたんですけども、どうも僕はそこに馴染めなくて、あっという間に大学に行かなくなって、地元の熊谷市に帰って、地元の友達と酒飲んでいました。夏頃になって、大学の体育を来年も履修するのは嫌だなと思って、単位を取るために大学に戻りました。そしたら先生に、次休んだら単位やらないよと言われて、面倒くさいなとか思っていたら、僕の他に同じように言われているのがもう1人いて。そういうのって、なんとなく仲良くなるじゃないですか。だから、グラウンド走りながら、「お前も休んでんだなぁ」「そうお前もか」「お前何やってんの」って。そしたらそいつが「演劇」って。僕は音楽に興味があったし、映画とかドラマも見ていましたけど、演劇っていうのは僕の今までの人生にあんまりないなって。「今度やるから観に来い」「あ、じゃあ観に行くわ」ってなって。初めて観に行ったお芝居が結構面白かったんですよ。60年代から70年代にかけて流行ったアングラ演劇っていうのがあって、その演劇をリスペクトしたような演劇やっていて。

それでご自身も芝居をやろうと思われたのですか。

相島さん 「芝居面白かったよ」と言ったら、 「一緒にやんないか」って。みんな辞めちゃって男優がいないからって。それで演劇っていうのをちょっとやってみようかなって、立教大学の演劇部シアトルジュンヌっていうところに 顔出すことになるんですよ。それから割と真面目に演劇をやりました。性に合ったんでしょうね。

お芝居は楽しかったのですか。

相島さん 最初はなんか時間ばっかり喰うんで好きじゃなかったんですよ。みんなでああじゃない、こうじゃないとかやって。20代前半の若者たちが訳も分からず指導者がいないまま演劇やってるからそらそうだよね。どうやって演劇やるからわかんないんだよ。僕はもうこの芝居が終わったらもう絶対やらないと思っていたんですけど、大学2年の時に初舞台をやって一カ月とか経つと、なんかまたやってたんだよね。もう絶対辞めようって思ってたのに1年、2年、3年って 続けてたんですよね、不思議なことに。

大学を卒業した後も役者を続けようと思われていましたか。

相島さん 将来サラリーマンとか就職するとかっていう気には全くなれなくて。背広着てネクタイ締めて好きでもない仕事するくらいなら好きなことやろうぜっていうような空気があって。僕らの周りの演劇やってる奴らの合言葉は、「好きなことやったって死にはしない」と。「貧しくったって死にはしない」と。僕はずっと演劇だけは飽きずに続けてて。で、しかもこんな僕を いいって言ってくれる人が3人ぐらいいたんですよ。相島はすごくいいと。たった3人しかいないんですけど、僕はその時に役者になろうって決めたんです。将来これで喰っていこうっていう決断です。そこから、役者で飯を喰うにはどうしたらいいんだっていうことをようやく考え始めるんですよね。僕は2年浪人して大学に8年通っているんですが、大学5年の時に友達と旗揚げして劇団作ったけどそれもあんまりうまくはいかなくて、その後、大学のOBがやっていた劇団に所属したりしました。その頃、三谷幸喜っていう人間と出会って、そこからですね、変わってくるのは。

三谷幸喜さんとはどのような出会いだったのですか。

相島さん 出会いはちょっと不思議で。立教で演劇やっていたときに、日本大学芸術学部で演劇をやっている女性を紹介されて、その女性は三谷幸喜さんという方がやっている劇団で演劇していると。当時東京サンシャインボーイズという三谷がやっているすごく面白い劇団があったんです。それで、僕がその女性と会った1週間後に三谷が立教に来て、一緒に芝居やりませんかと。じゃああなたがやってる劇団のお芝居を見せてくださいって言って、サンシャインボーイズのお芝居を観に行ったんです。三谷は劇団を大きくするためにもう一回人を集めようとしていたところで、ちょうどその時に出会ったばかりの女性が、立教に面白いやつがいると言って僕のことを三谷に紹介してくれたんです。その女の子、幸運の女神ですよね。今もお付き合いありますよ。

三谷さんの書くお芝居はどうでしたか。

相島さん 三谷はきちんと起承転結がある物語を書いていましたね。キャラクターがあって、オーソドックスな芝居を書いてたんですよ。俺、あれ好きだなって。昔、自分が子供の頃好きだったチャップリンの映画とかを思い出すんですよね。

三谷さんとはどのくらい一緒に演劇をされていたんですか。

相島さん 事務所に入るまで、7年間ぐらい。どんどん劇団が大きくなるんですよ。最初1千人お客さん入れようって言ってたのが、1万以上入るようになって、そうするとこの後どうすんのっていうことを色々考え始めて。三谷も売れてきて、テレビとかでいっぱい書き始めて、そんな中で、一旦劇団を解散しようと。それで三谷は劇団を解散する時に、劇団員全員を一人一人芸能事務所に入れてったんですよね。全員事務所に所属させるまで劇団は解散しないと言って。すごい男気がある人ですよ。

私が勝手に思い描いている三谷さんのイメージと違うかもしれません。

相島さん 三谷は照れ屋だからすぐ茶化したりとぼけたりするんですが、すごく熱い人ですよ。

相島さんもそこで事務所に入られて、活動の幅も広がっていくんですね。ドラマや映画にも多数出演されて、私もテレビ画面で何度も拝見しました。相島さんのプロフィールでは、プロの役者になったのが34歳と書かれていましたが、プロかどうかの基準は何ですか。

相島さん お芝居だけでご飯が食べられるようになったらプロと言っていいかなっていう感じです。僕は25歳の時にプロの役者を目指そうって言って、アルバイトをしながら演劇をする生活をずっとやるわけです。26歳で三谷と出会って一緒にやるんですけどバイトはしていて、事務所に入った後にコンスタントに仕事がある状況になって、バイトしなくてもアパート代が出せてなんとなくご飯が食べられるようになったのが34歳くらいってことなんですよね。

プロの役者としては順調に活動されていたと思いますが、今から15年ほど前に大きな病気をされたと伺いました。

相島さん そうですね。僕の病気は、ジスト(GIST、消化管間質腫瘍)というもので、症例は多くないんですよ。10万人に2人ぐらいの割合なので、データがさほどないんですよね。僕の場合は、お腹の中に野球ボールくらいの大きさの悪性腫瘍ができて。最悪は骨盤内全部摘出と言われて、どうなるのと思いました。僕はたまたま良いお医者さんと出会えて、薬も効いたから、その腫瘍がピンポン玉の大きさまで小さくなって摘出できました。その時は死とか色々考えた。それでもう好きなことやろうと思って、バンドやったり、子どもを作ったり。病気がなかったら、今そういうやりたいことやるっていう生き方じゃなかったかもしれないです。

これから新しくやりたいことはありますか。

相島さん 今やってるいろんなことを形にしたいですね。演劇は、このまま続けていい演劇と出会いたい。それから、読み聞かせのような演劇ではないパフォーマンスもしたい。

相島さんは、役者として他人を演じるときに、役の人格みたいなものが日常生活に影響してくるということはありますか。

相島さん ものによりますが、日常生活が役に引っ張られるっていうことは実際にあって、ホラーとか血みどろの作品やってると、日常が苦しくなるのは事実なんですよね。やっぱりその役をやるときはその人になってないとできないんですよ、絶対に。役から戻ってくる方法はいろんな方法があって、みなさんいろんなやり方でやるんだと思います。

舞台と映像ではお芝居は変わりますか。

相島さん 舞台の場合は、すぐ近くでお客さんが観ているということをいつも意識しながらやってます。ここにお客さんがいるかちょっと声が大きくなったりとか、同じ芝居でもお客さんで変わります。お客さんと一緒に作っている感じですね。映像の場合は観ている人に対する意識がないので全然違います。

弁護士を演じられたときはどんなイメージで演じられていますか。

相島さん 本によりますね。でも僕は割と嫌な奴系が多いです。仲の良い友人が割とやり手の弁護士になっているんですが、友人を見ているとほんと自分は弁護士には向いていなかったなって思います。今はお芝居の世界で弁護士とかをやって喜んでます(笑)。

相島さんの今後の活動予定を教えてください。

相島さん 実は、4月28日に僕の出身地である熊谷市で、「~相島一之presents~ クマガヤ アツonフェス」という音楽フェスをやります。僕はバンドで出演しますし、いろんな方をゲストに呼ぼうと思っていますので、皆さまも是非足をお運びください。一緒に楽しみましょう!

とても楽しそうなイベントですね!今後も幅広いご活躍を楽しみにしています!

ポスター「~相島一之presents~ クマガヤ アツonフェス」
PAGE TOP