従前「わたしと司法」と題しインタビュー記事を掲載しておりましたが,このたび司法の枠にとらわれず,様々な分野で活躍される方の人となり,お考え等を伺うために,会報広報委員会が色々な場所へ出向くという新企画「関弁連がゆく」を始めることとなりました。
俳優
小木 茂光さん
今回の「関弁連がゆく」は俳優の小木茂光さんです。パフォーマンス集団「劇男一世風靡」から小木さん、哀川翔さん、柳葉敏郎さんら7名の選抜メンバーによる音楽ユニット「一世風靡セピア」が結成されると、小木さんはそのリーダーを務め、1984年のデビュー曲「前略、道の上より」のメガヒットで大ブレイクされました。
セピア解散後は、俳優に転向され、ドラマ「踊る大捜査線」、「ひとつ屋根の下」、「軍師官兵衛」、「ネコナデ」や、映画「月はどっちに出ている」、「ALWAYS 三丁目の夕日」、「恋する男」など多数の人気作品に出演されています。幅広い役柄をこなし、その高い演技力からドラマや映画のオファーが止まらず、俳優として引く手あまたの大活躍をされています。今回は一世風靡のお話から11月に公開を控えた最新作映画「オアシス」のお話まで色々なお話を伺いました。
― 福井市のご出身だと伺ったんですが、どういう学生時代を過ごされていましたか。
小木さん 高校の時は剣道部で頑張っていたんですが肝炎になって途中で辞めてしまって、それからは特に何もせずに友達と遊んでました(笑)。歌や踊りも全くやってなかったですね。
― 大戸天童さん(※「劇男一世風靡」代表を務め「前略、道の上より」の作詞も担当)も福井市のご出身ですが大戸さんとは同級生なんでしょうか。
小木さん そうですね、2年生から一緒でしたね。彼は野球部だったんですが、高3の夏の大会で負けて部活が終わったころから急に親しくなって一緒に遊ぶようになりましたね。
― お二人が同級生というのが凄いですね。高校卒業後どうして上京されたんですか。
小木さん 当時DCブランドが流行っていて洋服に興味があったので、一旦名古屋の洋服関係の会社に就職したんですが直ぐに辞めて福井に戻ってきちゃったんです。そこから地元の親友に「田舎の福井にいてもしょうがないから東京に行こうよ」と誘われたのがきっかけで東京のデザイナーの専門学校に入ることになったんです。それで東京で大学生だった大戸天童の下宿に転がり込みました。
― そこからどうして路上パフォーマンスをするようになったんですか。
小木さん 大戸天童が「原宿の歩行者天国では竹の子族(※奇抜なファッションで踊る若者たちの集団)やローラー族(※フィフティーズのファッションに身を包みロカビリーに合わせて踊っていた集団)がいて面白いから俺たちもグループを作ってやってみよう」と言い出したのがきっかけですね。最初「ビクトリーズ」という名前で活動していました。
― メンバーはどのように集められたんですか。
小木さん 毎週土曜日に新宿のディスコに行って格好いい奴をナンパして集めてました(笑)。群馬から出て来てロボット工学をやってるっていう格好いい大学生がいたので、「面白いじゃん、やってみようよ」と誘ったのが、後にセピアのメンバーとなる松村冬風ですね。そういう感じで繋がっていって、だんだんメンバーが集まってきました。
― ビクトリーズ、零心会などのグループを経て、劇男一世風靡が結成されました。一世風靡といえばNHKホール前の広場での路上パフォーマンスが有名で社会現象にもなりましたが、きっかけはなんでしょうか。
小木さん 他の劇団のメンバーも合流して、腕立てや腹筋などの肉体訓練や発声練習を路上で披露するというパフォーマンスをやり始めたのが原点ですね。最初は劇男零心会という名前でやっていました。それから劇団公演もやったりして、その後くらいから翔ちゃん(※哀川翔さん)も見に来たりしたので、彼は別のグループだったんですが「劇団だからいいんじゃん、適当に入っちゃえよ」って声を掛けて入ってもらいましたね。
― 当時の哀川翔さんの印象はいかがでしたか。
小木さん 彼はロッカーだったから物凄いリーゼントで「すげえ髪型してるな」って思いましたね(笑)。
― 一世風靡の本格的な路上パフォーマンスへはどのように発展していったんですか。
小木さん それまでのパフォーマンスがなんか格好悪いなと思っていたんですが、フィフティーズブームで「スティング」という映画のスタイルが格好よくてこれを路上でできたらいいよねっていう話はしていたんです。「揃いのスーツを着てNHKホール前まで歩いていって、そこからいきなり上着脱いで踊り始めたら格好いいよね」って提案したら、みんなも面白いって言ってくれたんです。それでその日のうちに古着屋にスーツを買いに行って、私がスタイリストになってみんなのスーツを選んであげましたね。
― それが一世風靡のトレードマークとなるズートスーツ(※40年代のアメリカで流行しただぶだぶしたスーツ)の始まりなんですね!路上パフォーマンスでのご苦労はありましたか。
小木さん 路上で足を止めて見てもらおうと思って踊りと寸劇のようなパフォーマンスをしていました。寸劇ではセリフは事前に録音しておいて口パクで演技するんですけど、毎週違うことをやるのでバイトの後みんなで集まって準備するのが面白かったですけど大変でしたね。あと雨が降ろうが、雪が降ろうが、台風が来ようが、どんな時でも毎週日曜日の午後3時には必ずNHKホール前に行きました。大雪で何もできないような状況でも信じて待っているファンの人がいるのでやりましたね。
― 一世風靡の路上パフォーマンスにはどのくらいの人が集まったんですか。
小木さん 最初は数十人程度から始まって2000人位いたと思います。「トゥナイト」というテレビ番組で紹介された次の日曜日にはケヤキの木に登って見ている人までいて4000人位になっちゃいまいしたね。
― 凄いですね!さて劇男一世風靡から小木さん、哀川翔さん、柳葉敏郎さんら7名が選抜されて「一世風靡セピア」が結成されました。どうして小木さんがリーダーに選ばれたんですか。
小木さん 説明は難しいよね(笑)。一世風靡は若者の文化なんですけど、路上から始まってますしチャラチャラした感じは絶対に出したくなかったんですね。その一世風靡のコアの部分が守れないまま芸能界という華々しい世界に入ってしまうと、みんなバーッとどこかに行ってしまうんじゃないかという心配もありました。一世風靡としてみんなが繋がっていく大事な部分を守るための歯止め役として私がリーダーに選ばれたのかなと思います。
― 1984年6月に「前略、道の上より」を発表されていますが大戸天童さんが作詞した歌詞も含めて非常にインパクトがありました。初めて聞いた時どのような感想を持たれましたか。
小木さん 夜メンバーみんなでスタジオに集まって聞いた記憶があります。最初「ソイヤッ」から始まって、これは何だろうとは思いましたね(笑)。歌謡曲、演歌、ロックどれにも当てはまらない、今までにない新しいジャンルの曲で、どう表現したらいいか分からないですけど「なんかこれすげえ面白いじゃん」と思いましたね。
― 売れると思いましたか。
小木さん これは行くなとは思いましたね。他にはない音楽で自分たちが求めていたものかもしれないなと思いました。
― 振付けも最高に格好良かったですよね。
小木さん 川崎悦子先生に振付けしていただいたんですが、初めて振付きで歌った後、格好よくてメンバーみんな鳥肌が立ってました。これは俺たちにしかできないことだと思いましたね。
― 「前略、道の上より」がメガヒットして路上からあっという間に全国区の大スターになられました。お気持ちはいかがでしたか。
小木さん 有名なテレビ番組に出るようになりましたけど「こんなの嘘だろ」って感じでどこか冷めてる部分はありました。「夜のヒットスタジオ」では最初に歌のリレーという名物企画があるんですが、初めて出た時にセピアはそれをやらないで7人が階段を下りて登場するという特別の演出をしてもらいました。新人なのに海外のアーティストと同じような扱いをしてもらって、芸能界を結構なめてましたね(笑)。
― 春海四方さんが「前略、昭和のバカどもっ!!」という著書の中で、「セピアのデビュー当時が一番脚光を浴びたが人生で一番つらかった。あの時には戻りたくない」と書かれていました。小木さんはセピアのデビュー当時に戻りたいと思われますか。
小木さん 戻りたいとは思わないな(笑)。セピアって若者たちが何かを得て成長していく過程の時期だったような気がしますね。お金が入ってきたのが1年後くらいなので、それまではバイトもしていたんですが、朝までミーティングをして、そのまま寝ないでバイトに行ったりしましたし、勉強のために寝ないでオールナイトの映画にもよく行っていました。すごい活動量で頭がパンクしそうでしたし、実際夜中に高熱が出てベッドの上で叫んだこともあります(笑)。
― 凄いご経験ですね。さて解散後もセピアが踊っていた場所に毎年正月にお神酒を撒きに来るという柳葉敏郎さんのエピソードや、中野英雄さん、勝俣州和さんら直接メンバーじゃなかった方もセピアのことを熱く語られる場面を拝見して、ここまで熱量のあるグループは他にないんじゃないかと思いました。抽象的な質問で恐縮ですが小木さんにとって一世風靡セピアとはどういう存在ですか。
小木さん 何をやりたかったのかは実はどうでもよかったんですよ。時代はバブルの頃でしたけどお金もどうでもよかったんです。何ていうのかな、セピアって結局「若者の叫び」だったんですよね。セピアというものを作ってその扉を開けてしまった以上、もう元の生活には戻れないんでガムシャラにやる以外になかったんです。だからなんだろうね、自分にとってセピアとは大人になるための「禊(みそぎ)」みたいな位置付けになるのかなと思います。今でも自分の中の根底にセピアがあって、セピアという過程を経たからこそ役者という仕事にも真剣に向き合うことが出来たんだと思います。
― お話を伺ってセピアの凄さを垣間見た気がします。さて、これからはセピア解散後の役者としてのご活躍について伺います。私が小木さんの出演された映画で印象に残っているのが「月はどっちに出いている」(1993年/崔洋一監督)なんです。あの映画にはどういう経緯で出演されたのでしょうか。
小木さん オーディションに行って採用してもらいました。何が良かったかは分からないですけどね(笑)。「多分崔さんが求めているのはこういう事だろうな」というのが分かって、それを表現できたので自分と崔さんとは波長が合ったんだと思います。
― 崔監督は怖くなかったですか。
小木さん 僕には怖くなかったですね(笑)。周りのスタッフは大変だろうなとは思ってましたけどね。崔さんとはどこか分かり合えるところがあって、役者と監督っていう垣根を通り越して一緒に作品を作っていく共同体だっていう感覚がありましたね。
― 崔監督以外にも本広克行監督、井筒和幸監督、馬場康夫監督など多くの監督から引く手あまたですし、役も「踊る大捜査線」の一倉警視正のようなお堅い役から、悪役やコミカルな役まで幅広い役を演じておられます。役作りではどういうことを意識されていますか。
小木さん 芝居のリアリズムというものをいつも意識しています。当然一生懸命芝居することが求められているということは理解しているんですけど、それがリアリズムを欠いていたら僕の中ではダメなんですね。なので芝居を求めるんじゃなくて、何も考えずに役の人間そのものを求めた時の方がいい芝居になっているような気がしますね。
― 例えば「恋する男」(2020年/村田信男監督)というラブコメディ映画に主演されて、リストラされ、妻子にも逃げられた中年男性役を演じられましたがこの役ではどういうことを意識されましたか。
小木さん コメディックな役でしたがやはりリアルさは凄く意識しましたね。演じた役は本当に情けない男なんですが、その人間性の裏側の部分も考えましたし、格好ばかりつけるのがダメだと分かっていても格好をつけてしまうのが男の哀しさなので、そういったリアルさが表現できる芝居をしたいなと思っていました。
― 弁護士役も数多く演じておられますが演じられた感想はいかがですか。
小木さん 誰を弁護するにしても正義の部分があると思うんですが、悪い人で嘘をついていることが分かっていても弁護しなきゃいけない場合があるじゃないですか。そういった繊細な部分を演じることもあるので弁護士の芝居はやっていて一番面白いと思います。あと弁護士は無表情な方が多いというイメージがあるんで芝居でも顔に出さない方がいいんでしょうけど、僕の場合、現場の空気が淀んでいるのが嫌いなので、直ぐ顔に出しちゃうんですよ。カメラが引いていても分かっちゃう演技をしているのでアップが合わない役者なんだと思います(笑)。
― それはいい演技をされているということですよね。
小木さん それがいいのか悪い演技なのか答えはまだ出てないですね。引きのカットでいい芝居をしてしまうと、カメラは寄ってくれないので、あえて引きでは分かりにくい演技をして、カメラを寄らせる見せ方や技術が役者として必要なことかもしれないと最近は思っています。
― 難しいお話ですね(笑)。小木さんが考える「いい演技」とは何でしょうか。
小木さん 総合芸術ですし、表現方法がありすぎて、人それぞれ答えは違うと思いますが、結局「いい演技」とは「心を表に出すこと」なんじゃないのかなって思っています。
―
深いですね。さて小木さんが出演された映画「八犬伝」(曽利文彦監督)が10月から公開中ですが、岩屋拓郎さんの脚本・初監督作品「オアシス」(※1)も11月に公開されます。小木さんも組長役で出演されていますが、岩屋監督の印象はいかがでしたか。
(※1) 清水尋也さんと高杉真宙さんのW主演。社会からはみ出した若者たちが必死で「居場所と存在」を求め葛藤する姿が描かれている異色のヴァイオレンス青春映画(公式Ⅹより)
小木さん 初監督作品ですけど、これまでも色々な映画製作に参加されている監督です。ピンポイントで「こういう演技が欲しい」って言ってくれる監督だったので、やり易かったでですね。
― 「オアシス」に出演された感想や見どころをお教えいただけますか。
小木さん 作品に参加させていただいて光栄でした。親分役を演じたんですが、ヤクザの世界で生きているのに凄く愛がある人だと思いましたね。若者が自分の居場所を探求するというテーマの映画なんですが、親分自身も「自分の居場所」についてずっと悩んでいたんだと思います。その辺りにも注目していただいて是非多くの方に見ていただきたいと思います。
― 是非映画館で拝見させていただきます。本日はお忙しいところ貴重なお話をありがとうございました。