従前「わたしと司法」と題しインタビュー記事を掲載しておりましたが,このたび司法の枠にとらわれず,様々な分野で活躍される方の人となり,お考え等を伺うために,会報広報委員会が色々な場所へ出向くという新企画「関弁連がゆく」を始めることとなりました。
元フィギュアスケート選手、フィギュアスケート振付師、映画プロデューサー
村主 章枝さん
今回の「関弁連がゆく」は、元フィギュアスケート選手の村主章枝さんです。16歳での全日本選手権優勝を皮切りに、日本人初となるISUグランプリファイナル優勝、四大陸フィギュアスケート選手権3度の優勝、世界選手権3度のメダル獲得など輝かしい戦績を残された日本を代表するフィギュアスケーターのお一人です。五輪でもソルトレイクシティ五輪5位、トリノ五輪4位に入賞され、「氷上のアクトレス」と称された抜群の表現力でファンを魅了されました。現在はアメリカでフィギュアスケート振付師として若手選手の育成にご尽力されている他、新天地の映画の世界に飛び込まれて映画プロデューサーとしてもご活躍されています。今回はシーズン中のお忙しい中、アメリカ・テキサス州からのリモートインタビューに応じていただきました。
― 村主さんは3歳から5歳までアラスカで過ごされたそうですが、印象に残っていることはありますか。
村主さん 母から聞いた話だと英語が分からないので「幼稚園に行きたくない」と泣いていた時もあったそうなんですが、私の中では犬ぞりレースを見たり、凍った湖でスケートをしたりして、日本でできないことを沢山アラスカで体験できたので楽しかったという印象しかないですね。
― フィギュアスケートはどういう切っ掛けで始められたのですか。
村主さん アラスカでも遊びの一環としてフィギュアスケートをやっていたんですが、日本に戻った時にアラスカの思い出が残るだろうという思いから母が私をスケート教室に入れてくれたのが切っ掛けですね。横浜の駅の近くにある小さなリンクで6歳から始めました。
[妹さん(左) と8歳の時の村主さん(右)]
― そこから16歳で全日本選手権で優勝されるなど素晴らしいご活躍ですね。
村主さん 私は才能もなくて、結果が出だしたのは遅い方なんですよ。中学校2年で出た大会が上手くいかなくて人前で恥ずかしい思いをしたんですが、それが悔しくて負けず嫌いの性格もあって一生懸命頑張るようになったんです。あとは同世代で強い選手が少なかったという偶然もあって成績が上がっていったという感じですね。
― 中学、高校ではどのような生活を送られていたのですか。
村主さん 朝5時に起きて学校に行く前に朝練をして、その後、母が学校まで車で送ってくれました。その車の中で朝ごはんを食べて、着替えて学校に行っていましたね。学校が終わったらまた母に迎えに来てもらって、車の中で着替えてリンクに行って練習するような生活を送っていました。両親は私のやりたいことに凄く協力してくれて、自分が教える立場になった今、そのありがたみが本当に良く分かりますね。
―
村主さんも凄いですがご両親も素晴らしいですね!さて村主さんは15歳から世界的なフィギュアスケート振付師のローリー・ニコルさん(※1)に師事されていますが、まず「振付師」とはどのようなお仕事なのでしょうか。
(※1) ミッシェル・クアン、パトリック・チャンらを指導した専業の振付師の先駆けとなる世界的振付師。日本でも村主さんの他、本田武史さん、浅田真央さん、高橋大輔さんら多くの選手を指導している。
村主さん フィギュアではジャンプやスピンなどの決められた要素を入れる必要があるんですが、どこに入れるのかは自由なんです。要素の配列やつなぎの振りなどを考えるのが振付師の役割で、ジャンプ等の技の精度を上げるのがコーチの役割なんですね。フィギュアを料理で例えると決められた食材や調理法で料理をするんですが、どんな料理をどのように盛り付けるのかは自由なので、レシピやデコレーションを考えるのが振付師の役割で、食材の切り方などの技術を教えるのがコーチの役割ということになりますね。昔はコーチが振付けも考えていたんですが、フィギュアの採点法が大幅に変わって、難易度が上がったことが切っ掛けで分業されるようになりました。
― 分かり易いご説明ありがとうございます。村主さんがローリーさんに師事された切っ掛けは何でしょうか。
村主さん ミシェル・クワンという選手が私と同い年で注目していたんですが、彼女が15歳の時に1996年の世界大会で突然少女から大人の女性に大変身して初優勝を飾ったんです。1年で劇的に変わったので理由を調べてみたらローリー先生の指導が原因だと分かりました。インターネットもない時代でしたので調べるのも大変でしたね(笑)。私も是非この人に習ってみたいと思って、彼女の連絡先をいろんな人に聞いて調べて、国際電話をかけて振付けをお願いしました。
― 行動力が素晴らしいですね!ローリーさんの指導でどのようなことが印象に残っていますか。
村主さん 見てくださってる観客の方が喜んだり、楽しんだり、何かを感じ取ってもらえるような演技をするようにご指導いただいて「心でスケートをして欲しい」と言われたのが印象的ですね。ローリー先生が作るプログラムは、必ずメッセージ性があって、点数を取るために作ったような作品は1つもなかったです。芸術作品に近いイメージで、例え順位で1番になれなくても人の心には一生残るようなプログラムをいつも考えていただいたと思いますね。15歳でローリー先生に出会ってから、私も将来はローリー先生のような振付師になりたいとずっと思っていました。
[演技をする現役時代の村主さん]
― そのご指導が「氷上のアクトレス」と呼ばれる素晴らしい表現力に繋がっていったんですね!さて21歳で初めての五輪となるソルトレイクシティ五輪(2002年)に出場されました。フリースタイルでベートーヴェンの「月光」を選曲されたのはどうしてですか。
村主さん 前年の9月にアメリカで同時多発テロが発生して五輪の開催自体も分からない状況でした。結局開催されることになったんですが、世の中全体が沈んで凄く暗い雰囲気の年だったんですね。「そういう暗い中でも一筋の道を示す月の光みたいな演技ができたらいいね」という話をローリー先生としていて、私の作品を見てくださった方が、暗い中でも光が差し込むような温かい気持に少しでもなっていただけたらという思いから「月光」を選びました。
― そういう意味があったんですね!私も好きな曲なので印象に残っています。5位に入賞されましたが初めて出場された五輪の感想はいかがでしたか。
村主さん
自国開催の長野五輪(1998年)の出場を逃してしまったのが凄く悔しくて、次の4年間は五輪にかけていました。2000年の世界選手権で成績を残せてソルトレイクシティ五輪の出場枠が2人に増えて(※2)、安心していたんですが、五輪前年の成績がガタガタで、最後の最後で全日本選手権に優勝してなんとか最後の切符を取ったという感じでした。ですのでソルトレイクシティの時は成績よりも出場できたことで一杯一杯だったような気がします。
(※2)国別の五輪出場枠は世界選手権の順位で決められるが、村主さんのご活躍で、長野五輪で1人だった日本人の出場枠が2人に増えた。
― 五輪の出場枠のお話が出ましたが、日本女子フィギュアがこんなにも発展したのは村主さんが出場枠を増やしてくれたお陰だと村主さんの功績を称える声が非常に多いですよね。
村主さん 波乱万丈な競技人生を何とかやってきただけですので全然そんなことないです(笑)。
― ご謙遜されていますが素晴らしい功績だと思います。さて次のトリノ五輪(2006年)にも出場されて4位に入賞されましたが、トリノ五輪の感想はいかがですか。
村主さん トリノでのメダルを目指して4年間一生懸命頑張りました。前年に怪我もあったりしたんですが、トリノでは自分ができることを出し尽くして、自分の中ではほぼ100%の出来だったんですけどメダルに届きませんでした。消化不良で自分には何が足りないんだろうと思い悩みましたね。その答えは五輪でしか見つからないと思って次の五輪を目指しました。
― 村主さんは2014年の33歳まで現役を続けられていますが、多くの選手が20代で引退される中、長く現役を続けられたのはどうしてですか。
村主さん 五輪に強いこだわりがありました。五輪の会場は聖地のように空気がすごく澄んでいて特別なんですね。他の大会では勝てている大会もあるのに五輪ではいつも足りないのはどうしてなんだろうと思い、ずっと五輪を目指していました。トリノの次のバンクーバー五輪に出場できなくて、また次を目指していたらあっという間に33歳になっていたという感じでしたね(笑)。
― 引退を決められた時はどういうお気持ちでしたか。
村主さん 競技生活に悔いもありましたが、15歳でローリー先生に出会ってから、「ローリー先生のような振付師になりたい」とずっと思っていましたので、その夢がスタートとするという前向きな気持ちもありましたね。
― 波乱万丈の競技人生だとおっしゃっていましたが、一番お辛かったのは怪我をされた時でしょうか。
村主さん 怪我をしたときは大変ですけど、間に合わせなきゃいけないと思って必死になれて成長する機会でもありましたので基本的には辛くはありませんでしたね。追い詰められた中で頑張っていたことも今思うと幸せだったと思います。
― 素晴らしいお考えですね!さて村主さんがイメージする理想のフィギュアスケートとはどのようなものでしょうか。
村主さん 映画なんかだと「自分の人生が救われた」という作品に出会えることがあると思うんですが、フィギュアでも見ている方にそのような感動を味わっていただけるような作品が理想です。あとは氷の上を抵抗なく滑らかに滑るというスケートにしか出せない美しさを表現できている作品が良いと思いますね。
― さて現在、村主さんはアメリカ・ラスベガスを拠点に活動されていますが、どういう切っ掛けだったのでしょうか。
村主さん ローリー先生がカナダにいて環境もいいということもあってカナダで活動していたんですが、ビザの関係で2017年にアメリカに移ることにしたんです。どうしてラスベガスかというと2017年にラスベガスに「ベガス・ゴールデンナイツ」という新しいNHLのホッケーチームが誕生して、ラスベガスにリンクが沢山出来たんです。たまたま知り合いラスベガスに住んでいて誘われて見に行ったんですねが、住みやすくて、リンクも沢山あるので、それでラスベガスに移ることにしました。
― 主に若手のフィギュアスケート選手をご指導されていますが、今何人くらいに教えられているのですか。
村主さん ちょうど今20人くらいですね。ダラスやテキサスのオースティン、オハイオなどで教えています。
[子供の生徒さんと触れ合う村主さん]
― ご指導されていてご苦労はありますか。
村主さん そうですね、若い子を教えるときは、スケート以前に「挨拶はちゃんとする」とか「人の話はちゃんと聞く」といった生活態度を直すところからスタートする感じなので、なかなかスケートの技術を教えるとこまで行かないところが大変ですね(笑)。
― さて村主さんがフィギュアの指導以外に2019年から映画プロデューサーとしてご活躍されていることを伺って大変驚いたんですが、どういう経緯で映画を作ることになったのですか。
村主さん アイススケートショーをやってみたいっていうのが長年の夢でした。ラスベガスに移ったぐらいにようやく話がまとまってきて、そのショーを記録するために映像作成のチームも集めることができたんですが、新型コロナウイルスの流行でショーの開催できなくなってしまったんです。でも映像チームの方から「ショーができないなら映画を撮ろう」と提案されて、映画のことは何もわからなかったんですが、今まで自分が色々な方に支えて貰っていたので、今度は私が協力する番だと思ってやり始めたのが切っ掛けですね。最初の5年ぐらいは色々な短編作品を作っていましたが、2023年は長編作品を作ることができました。
― 既にいくつか賞も受賞されて凄いですね。映画を作る上での村主さんのこだわりを教えていただけますか。
村主さん 「その映画で何を伝えるのか」という所にこだわりはあります。有名な役者や監督で作ると多少ストーリーがおかしくても映画って作れてしまうところがあるんですけど、そういうのは嫌で、お金がなくても自分たちが良いと思う作品を作りたいですね。
― さて今までも色々なことに挑戦されていますが、今後はどんなことに挑戦してみたいですか。
村主さん スケートの方は色々なハードルがあって大変なんですが、アイススケートショーの開催を是非実現したいと思っています。映画の方は日本をテーマにした作品を作りたいですし、あと、実は以前ホラー映画の代役で急遽モンスター役を演じたことがあるんですが、ハードでしたけど結構楽しかったので、また是非モンスター役をやってみたいですね(笑)。
― 最後に弁護士にはどのような印象を持たれていますか。
村主さん 日本だと一般の方と弁護士さんとの間に距離感があるような気がします。アメリカでは色々な文化があって考え方も違うので契約をしないと社会が成り立たないところがあって、何かあると直ぐに弁護士さんに相談するのでアメリカでは弁護士さんとの距離が近いんですね。でも日本でここにおられる角田さんにお世話になったことがあるんですが、とても気さくで親しみやすいお人柄で、いつも凄く丁寧に対応してくださって私がイメージしていた日本の弁護士さんとは全然違いましたね(笑)。
― 角田弁護士は私に対してもいつも丁寧で一生懸命なので本当にありがたい存在です(笑)。日本でも弁護士の親しみやすさは大切だと思いますので私も依頼者に距離感があると思われないように同じ弁護士として見習いたいと思います。本日はお忙しいところ貴重なお話をありがとうございました。今後のご活躍を楽しみにしております。