従前「わたしと司法」と題しインタビュー記事を掲載しておりましたが、このたび司法の枠にとらわれず、様々な分野で活躍される方の人となり、お考え等を伺うために、会報広報委員会が色々な場所へ出向くという新企画「関弁連がゆく」を始めることとなりました。
ボクシングレフェリー
森田健さん
本日は昭和39年より41年間に亘りボクシングのレフェリー,ジャッジとして約3万試合を裁き,活躍されてきた森田健さんにインタビューをお願いしました。
―ボクシングの審判になる前に,森田さん自身もボクシング選手だったそうですね
森田さん はい。高崎拳闘道場でボクシングを始めてアマ戦績は19勝4敗でした。その後,昭和34年に新和ジムよりプロデビューし,フライ級で13勝5敗3分の成績を残しました。
―高橋伸二関弁連理事長も同じ高崎のジムでボクシングをされていたと聞きましたが,高橋理事長と拳を交えたことはありましたか
森田さん 高橋先生は私の5歳年下の後輩ですし階級も違いますから,練習も含め拳を交えたことはありません。でも,昔からの知り合いですし,今の高崎のジムは,私が設立しすぐに高橋先生にその運営を引き継いでもらった関係でとても親しいので,今でも何かの折りに色々な会合に呼ばれ,得意でもないのに「何か挨拶をしろ」と言われます(笑)。
―プロでの思い出は
森田さん 色々ありますが,ファイティング原田と試合をしたことなどはよく覚えています。負けはしましたが,ノックアウトではありませんでした。今でも原田さんは,私をノックアウトしたと言い張っていますが(笑)。原田さんの所属していた笹崎ジムの選手は,ファイタータイプのしつこい選手が多くて,苦戦しました。私がプロを引退したのも,笹崎ジム所属のタコ八郎に負けてしまったからです。
―その後,ボクシングの審判に転身し,これまで約3万試合を担当なさってきたそうですが,それほど多くの試合に携われた理由はなんですか
森田さん 私が審判に転身したころ,当時のボクシング協会の事務局長に大変厳しくかつ暖かく審判の技術を叩き込まれ,かつ当時から大きな試合を担当し,若いうちに多くの経験を積むことができたからだと思います。ファイティング原田の世界タイトルマッチが行われた日,当時B級の審判ライセンスしか持っていなかった私は試合会場で突然コミッショナーからA級ライセンス料を支払うよう求められ,すぐに支払を済ませその日にA級審判となり,いきなり世界戦という重要なしかもファイティング原田という人気選手の試合のジャッジをやるように言われたのです。大変でしたが,こうした経験の積み重ねができたのは幸運でした。
また,経済的にも審判は苦しいですから,多くの審判は昼間定職に就いて働いています。その点でも私は恵まれていました。6度ほど転職をしましたが,概ねボクシングに理解のある経営者や上司に囲まれていたと思います。何しろほとんど毎日午後4時には退社してしまうんですから(笑)。
私は,昭和56年に人材派遣会社を設立し,現在も経営していますが,それも自分が経営者になれば,ボクシングの審判を優先できることが大きな理由です。
―ボクシングの審判をしていて一番印象に残った試合は
森田さん 昭和56年のWBA世界ウェルター級王者ハーンズの防衛戦ですね。私はこのとき初めて本場アメリカのリングに上がったのですが,その試合の4回,ハーンズの連打にグロッキー状態になった挑戦者バエスとハーンズの間に割って入り試合を止めたのです。すると,その直後,バエスが崩れ落ちたのです。これ以上のないタイミングで試合を止めたということで私のこの試合でのレフェリングは高く評価され,世界戦を多く担当するきっかけになりました。自分でもベストタイミングで止められたと自信を持っています。
―ボクシングの審判をしていて一番難しいのはどんな点ですか
森田さん スリップなのか,ダウンなのか,ホールドの反則があるのかないのかといった判断でしょうか。以前レフェリーは採点もしていましたから,選手の邪魔にならない位置でかつ反則の有無などの判断をしっかりできる位置に常にいられるよう絶えず動き回り,ときにはクリンチに割って入るなど試合を円滑に進め,それに加え,毎回採点をしなければなりませんでした。それには高い集中力が必要で本当に大変なことでした。私も試合に望むときは,よいレフェリングをしなければならないというプレッシャーをいつも抱え,試合の前後に頭痛薬を必ず飲んでいたほどです。
―ボクシングのレフェリーも同じ審判ということで裁判官と共通するところがあるのでしょうか
森田さん リング上で,レフェリーの判断は絶対であるという点でしょうか。レフェリーは,その判断に迷った場合,ジャッジに意見を求めることができますが,その逆はありません。セコンドや観客からどんな野次が飛ぼうと関係がありません。私がレフェリーをした平成13年の畑山とリック吉村のWBAライト級戦でも,畑山サイドのセコンドからリックのホールドの反則の指摘がありましたが,私はそれには耳を貸さず,自分の目できちんとホールドしたのを確認し,リックに1点の減点をしました。結局,1点の差でリックは引き分けましたが,私が自分の目で確認した判断であったため,両サイドとも試合結果に文句を言うことはありませんでした。
―審判も人間である以上,ボクシングでもミスジャッジはつきものですか
森田さん 私は,一度もミスジャッジをしたことはありません。でも,若い審判を見ていると,色々なミスをしていますね。一応ビデオでミスであることが確認されれば,審判にペナルティーが科されることはあります。
―審判を買収しようとする輩もいるのでは
森田さん 私も海外でレフェリーをした際,試合前に目の前にドル札を積まれた経験があります。もちろん断りましたが(笑)。以前は,そういった事態を避けるため,国内タイトル戦などは試合の30分前まで試合の審判を誰が行うのか,発表していませんでした。今は,会場に行けば分かりますが。
―同じ審判として日本の裁判所に対する意見はありますか
森田さん 実は,私も裁判で訴えられたことがあります。ある選手の試合で私はその選手がダウンしたと判断し試合を止めたのですが,後日,そのジムが「あれはダウンではなくスリップだ。」と言って,再試合を求める訴訟を起こしてきたのです。私も裁判所に呼ばれ,裁判官から事情を聞かれました。私が裁判官に対しボクシングを知っているのか尋ねたところ,裁判官は知らないと言ったのです。そして,裁判官は私に一体リング上で何が起こったのか聞いてきたので,私は野球を例に説明したところ,裁判官は「それは訴える方がおかしいね」と納得してくれました。結局,その選手が訴えを取り下げて訴訟は終わりましたが,裁判官も勉強になったのではないでしょうか。私も,今,サッカー協会から講演を頼まれることなどがありますが,そのためサッカーのことを理解するようになったりして自分の成長に繋がっていると思います。やはり裁判所は一般人から見ると硬いイメージがあるので,それを親しみやすいイメージに変えていく努力が必要なのではないでしょうか。
―来年ボクシングの審判を引退するそうですね
森田さん はい。来年私は70歳になりますので,後進に道を譲りたいと考えています。
―引退後はどうされるつもりですか
森田さん もちろん人材派遣の仕事は自分の性に合っているので続けます。ボクシングについてもまだまだプロモーターになりたい,日本チャンピオンを育ててみたいといった夢があります。今女性にダイエットボクシングを教えているのですが,それも続けたいです。
―本日はほんとうにありがとうございました
インタビュアーの感想
森田さんは,大変気さくな方で,オフレコの部分も含め,たくさんお話いただき,インタビューのすべてを掲載することはできませんでした。長年リング上で体を動かし活躍されてきただけあり,69歳という年齢を全く感じませんでした。インタビューの数日前に実際の試合を後楽園ホールで森田さんと一緒に見ましたが,意識して審判の動きを見ることができ,さらに森田さんのインタビューにより審判の役割がよく分かったと思います。普段ボクシングと縁遠い生活をしていましたが,大変楽しかったです。