従前「わたしと司法」と題しインタビュー記事を掲載しておりましたが、このたび司法の枠にとらわれず、様々な分野で活躍される方の人となり、お考え等を伺うために、会報広報委員会が色々な場所へ出向くという新企画「関弁連がゆく」を始めることとなりました。
元プロサッカー選手
奥寺康彦さん
今回の「わたし」は、元プロサッカー選手、奥寺康彦さんです。奥寺さんは、1952年秋田県生まれ、小学校4年生のときに横浜に引越し、舞岡中学校でサッカーを始めました。その後、相模工大付属高校に進学し、卒業後は実業団の古河電工に入社されました。そして、1976年のブラジルのパルメイラスへの留学がきっかけで選手としての才能が開花し、1977年の日本代表の欧州遠征でドイツの1FCケルンの監督から強いオファーを受け、日本初のプロサッカー選手が誕生しました。
ドイツのブンデスリーガでは、正確かつスピード溢れるプレイスタイルから「東洋のコンピュータ」のニックネームで親しまれ、ベストイレブンの常連として、高い名声を博しました。9年間のブンデスリーガ生活を終えて86年に帰国された後は、古河電工及び日本代表の中心として活躍し、88年に現役を引退されました。
その後は、Jリーグのジェフ市原のゼネラルマネージャー(以下、GM)、スーパーバイザー、監督を経て、現在ではJ2横浜FCの運営を行う横浜フリエスポーツクラブ株式会社代表取締役兼GMを務めておられます。
―奥寺さんは、サッカーを始められたのは、中学からだったんですね。
奥寺さん はい、小学校のときは卓球が好きで、中学でも卓球部に入ったんです。でも、台も少ないし、一年だから素振り1000回とか、ウサギ跳びとか、そういう前時代的な練習ばかりで嫌になって、友達の誘いもあってサッカー部に入ったんですよ。
―そうすると卓球部が充実していたら未来の大選手は誕生していなかったのですね。舞岡中学はサッカーは強かったのですか。
奥寺さん そうですね。横浜でも強い方だったと思います。でも環境はあまりよくありませんでした。グラウンドも狭いし、ゴールだってハンドボールのゴールよりちょっと大きいくらいで。でも3年の時に県大会で優勝して、PTAの協力で正規のゴールを作ってもらって、部員全員で喜んで鉄鋼所から運びました。
―ハンドボールのゴールで練習してたんですか。試合で影響ありませんでしたか。
奥寺さん それが、シュート打って「外れたかなー」と思っても、ゴールが大きいから入っちゃったりして、案外よかったですよ(笑)。
―その後は、サッカーの名門相模工大付属高校を経て、実業団の強豪古河電工に入られたのですよね。当時はアマチュアしかなかったわけですが、お仕事もされていたのですか。
奥寺さん そうですね。古河に入って3年くらいは、工場で電気のケーブルの耐熱実験をやってました。練習も一日おきでしたね。4年目からはサッカー強化のために本社勤務になって毎日午後は練習できるようになりましたが。
―そして、76年には奥寺さんの飛躍のきっかけとなったブラジル留学をされるのですね。
奥寺さん そう、会社がブラジルに工場を立てたので、パルメイラスに2ヶ月間留学したのです。ホテルはボロボロ、共同トイレに簡易ベッドだったけど(笑)。でも、レベルの高い中で毎日サッカーをして、ボールの扱いがどんどんうまくなるのが分かりましたね。やっぱりプロは生活がかかっているので、限界ギリギリになってもそこからもうひと頑張りするし、そういうプロの世界を肌に感じたのは大きかったです。
―それで帰って来たとたん日本代表のマレーシアのムルデカ大会でハットトリックを決めて大会得点王に輝き、古河電工はリーグ戦とカップ戦、天皇杯の三冠を達成と、急速にスケールアップされたようですね。
奥寺さん そうですね。年齢も23歳で、選手としてよい時期に差しかかったところにブラジル留学を経験して、多くのものを吸収できたということだと思います。
―そして、77年の日本代表欧州遠征でケルンの練習に参加されたのが日本初のプロサッカー選手誕生につながるわけですね。
奥寺さん そうです。このときは、日本代表監督の二宮さんが、ブンデスリーガ1FCケルンのバイスバイラー監督と親しくて、特別にケルンの合宿に参加させてもらったのです。そしたらケルンは当時、スピードのある左ウィングを探していたこともあって、二宮さんを通じて入団のオファーが来たのです。
―最初は突然のことで戸惑ったのではないですか。
奥寺さん 驚きました。日本人が海外でプレーするなんて全く考えられなかった時代ですから。ウチの奥さんなんて、「きっと社交辞令よ」なんて言ってましたよ(笑)。でもバイスバイラーが熱心に誘ってくれて、よくよく話を聞いて本気なんだとわかって、不安はあったけれど決心したのです。
―契約金3000万円、年俸2500万円、これは当時破格の待遇ではないですか。古河時代とは比べ物にならないでしょう?
奥寺さん もう、全然違いますよ(笑)。会社にいた頃は安月給で、選手には給料日前に特別に5000円の食費がもらえるのですが、もう5000円でもみんな大喜びでしたよ。
―でも、ドイツに渡って、最初は言葉や食事など大変だったのではないですか。
奥寺さん 言葉は本当に大変でしたね。でも監督にベルリッツに連れて行かれて、3ヶ月間毎日勉強したら、話す方はカタコトでしたが相手の話はわかるようになりました。やっぱり言葉は大事ですよ。通訳はいたけど、選手とのコミュニケーションを自分で取るのは信頼を得るためにも非常に重要ですから。もっとも、試合中は「行けー」とか「引けー」とか「こっちだー」とか言う程度で、あまり会話能力は要りませんが(笑)。それと食事は、僕はなんでも気にならないたちなので問題ありませんでした。1ヵ月後に奥さんと子供も合流して、普通のご飯が食べられましたし。
―それで、奥寺さんが入った年に1FCケルンはリーグ戦とカップ戦の2冠達成、翌年はチャンピオンズカップの準決勝まで進んだのですよね。
奥寺さん あの頃のブンデスリーガはベッケンバウアーとか74年のワールドカップ優勝のメンバーも沢山いて、すごく華やかな頃でしたね。ケルンのチーム状態もよかったですし、本当に充実していました。でもチャンピオンズカップは悔しかったですよ。あの頃は、各国のリーグ戦の優勝チームが出てくるので、なんとアイスランドのチームとかいるんですよ(笑)。それでたまたまケルンとイングランドのノッティンガムが同じ山になって、準決勝が事実上の決勝だったのです。決勝までいけたら、相手はスウェーデンのマルメですから、簡単に勝てたでしょうね。ノッティンガムに勝っていたら、第1回のトヨタカップに出場できたのに、とても残念な思い出です。
―そして、80年のオフにバイスバイラー監督が移ったのを期に、奥寺さんもヘルタ・ベルリンを一年はさんで、ベルダー・ブレーメンに移籍された。我々ファンのイメージは、奥寺さんというとブレーメンですね。
奥寺さん ブレーメンには5年もいましたからね。
―ポジションも左ウィングだけではなくて、左サイドバックなどもされるようになりましたね。
奥寺さん 左だけじゃなくて右サイドバックもやったし、それこそゴールキーパー以外は全部やりましたよ(笑)。私はもともと右足のキックも得意だったので、どこでもやれたのです。これはプロ選手として競技を続ける上で大きかったと思います。
―ユーティリティープレーヤーとして重宝されていたわけですね。
ブレーメンではリーグ戦優勝はなかなか手が届かなかったようですが、86年のドイツ最後のシーズンでは、ブレーメンは最終節の一つ前の試合で首位に立っていますね。
奥寺さん あの試合は今でも忘れませんよ。終了間際にPKをもらって、それさえ決めれば最終節を待たずにリーグ制覇だったのに、キッカーがポストに当てて外しちゃったんです。いつもは必ず決める選手でしたが、やっぱり力が入ったんでしょうね。それで優勝はバイエルン・ミュンヘンにもって行かれました。
―そして、87年に帰国されるわけですが、その際に「ライセンスプレーヤー」という名称で、日本サッカー界初のプロ契約をされたのですよね。当時の日本サッカーでは、プロ契約というとかなり抵抗感があったのでしょうか。
奥寺さん そうですね、プロ契約は「汚い」っていうイメージまではないけど、なにかアマチュアは清貧に甘んずるというような風潮がありましたね。でも、下地はあったというか、外国人選手も多く入ってきてましたし、プロ化に向かって流れ始めている雰囲気はありましたね。
―帰国後は、古河の主力として日本チームで初めてアジアクラブ選手権を制覇、代表でも10番をつけて五輪予選に出場されるなど活躍を続けた後、88年に引退され、その後はJリーグのジェフ市原のGM、監督を経て、現在は横浜FCのGMをされておられます。GMというのは具体的にはどのような役職なのですか。
奥寺さん まあ、球団社長ですね。選手の獲得から、契約の更改、財政の管理、もちろん試合も全部見ますし、とにかく現場に関わることは何でもしますよ。
―代理人との交渉とか、契約書チェックなどもするのですか。
奥寺さん もちろんします。J2のチームでも弁護士さんの代理人やFIFA公認の代理人をつける選手もいますし、選手の契約には気を遣います。通常は、1年ごとに契約を更改する単年契約ですが、よい選手は複数年契約にして確保したり、また1ゴールあたりいくらとか出来高制をつけたりもしますよ。
―昨期は、横浜FCは、10勝12敗22分でJ2の8位。負け数は上位チームと遜色ありませんが、引き分けが22と断トツに多いですね。得点が少ないようです。
奥寺さん そうなのです。引き分けの半分を勝ちにできたら、上位3位以内に入ってJ1も見えてきますよ。もちろん、限られた財政の中でよい選手を補強してチーム力をアップさせるのは難しい面もありますが、監督も変わりましたし、なによりファンの皆さんが熱心に応援してくれていますから、今期は頑張りますよ。近い将来マリノスとダービーマッチが出来れば嬉しいですね。
―頑張って下さい、期待してます。