従前「わたしと司法」と題しインタビュー記事を掲載しておりましたが、このたび司法の枠にとらわれず、様々な分野で活躍される方の人となり、お考え等を伺うために、会報広報委員会が色々な場所へ出向くという新企画「関弁連がゆく」を始めることとなりました。
レーシングドライバー
太田哲也さん
今回の「わたし」は,レーシングドライバーでモータージャーナリストの太田哲也さんです。
太田さんは,1959年,群馬県前橋市生まれの48歳,82年の大学卒業後にレースデビューして瞬く間にステップアップし,87年からは全日本F3000選手権に出場,89年からはマツダとワークス契約を結び全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権に出場されるなど,日本のトップドライバーとして活躍されました。93年から96年までは,ル・マン24時間レースにフェラーリ348LMで出場したことが契機となり,全日本GT選手権にフェラーリF40で参戦し,「日本一のフェラーリ遣い」の異名をとりました。また,車に関する的確なインプレッションも高く評価され,95年からは日本カーオブザイヤーの選考委員を務めるなど,モータージャーナリストとしても活躍されました。
ところが,98年に,富士スピードウェイで大事故に巻き込まれ,全身火傷の重症を負ってしまいます。そのため,一時は再起不能と言われましたが,2年半にわたる手術とリハビリを経て,再度サーキットに復帰されました。
その後は,現在に至るまで,「クラッシュ」「リバース」(幻冬舎)等の著作活動や,チャレンジする素晴らしさを若い世代に伝える講演活動,40歳以上の社会人のためのレースクラブ「太田哲也とオヤジレーサーズ」の主催など,多岐にわたるご活躍をされています。
―太田さん,初めまして。太田さんは,大学卒業してから本格的にレースを始められたのですが,最初から職業としてレーサーを目指していたのでしょうか。
太田さん いや,本当は,大学時代は税理士になるための勉強をしていたのです。3科目は合格していたので,あと少しだったのですが,どうも自分に合ってない気がして,「やはり好きなことをやろう」と決心して,レースを始めたのです。大学時代にジムカーナをやっていて,車のレースが好きだったのですね。
―82年レースデビューですが,最初はどんなカテゴリーから始めたのですか。
太田さん 最初は,サニーの改造車でレースに出てました。ポールポジションなんかも取っていて,それはそれで楽しかったのですが,「これじゃ,さすがに職業としてやっていくのは難しいな。」と思って,フォーミュラカーの一番下のクラスのFJを買って参戦したのです。2年くらい乗ってましたね。
―その後,懐かしい富士グランドチャンピオンレースにステップアップされたのですね。
太田さん そうです,86年にはF3にステップアップしていたのですが,最終戦でグラチャンのチームから声がかかって,翌年からはグラチャンとF3000に乗ることができました。
―当時,グラチャンとF3000といえば,日本の最高峰ですよね。星野一義選手とか,中嶋悟選手とかいた頃じゃないですか。
太田さん 中嶋選手はすでにF1に行ってましたね。星野選手のほかには,長谷見昌弘選手,高橋国光選手,松本恵二選手,エマニュエル・ピロ選手,ジェフ・リース選手,錚々たる豪華メンバーでしたよ。
―レースを始めてわずか4年で最高峰に到達したわけですか。私は,前から思っていたのですが,車を速く走らせる才能というのは,人間のどの能力によるのでしょうか? 例えば,水泳や自転車競技ならやはりスピードとスタミナの要素が大きいわけですが,野球なんかになると,もう少し技術的な要素の割合が高くなって,ゴルフなんかだとさらにメンタル面の強さも要求されるようになるわけですよね。
太田さん ううん,そうですね,まず一定の体力はどうしても必要です。普通の車がせいぜい60~70kmで走るコーナーを280kmくらいで走るわけですから。横Gで血液も偏りますし,脈拍も180くらいになります。ただ,自分で走るわけではなくて,車を速く走らせるという競技なので,体力だけでは決まりません。やはり,車の限界ギリギリを感じ取る能力や分析力,また限界において瞬時に判断して車輌をコントロールする技術,その状態を一時間以上も続ける集中力,これがレーサーに必要な資質だと思います。
―そうですか。レース中,闘争心むき出しでやってるわけではないんですね。
太田さん どうしてもレースをしていると,「コノヤロー」とか「行くぞー」とか,カッカしてしまうこともありますよ。みんな「オレが最高」と思ってる連中ですから(笑)。そういう闘争心も必要ですが,冷静に状況を分析して,自分の車の能力を最大限に引き出して,それを継続するメンタルのスタミナも求められるわけです。それと,チームのスタッフやスポンサーさんとの関係も大事ですから,親しみやすさとか人間性,トークの能力も欠かせません。いろんな面でのバランスが求められるスポーツですね。
―89年にはマツダとワークス契約を結んで,グループカー,要するにル・マンみたいな耐久レースのカテゴリーでも活躍され,マツダ撤退後は,主に全日本GT選手権に出ておられたのですね。
太田さん そうですね,ル・マンで乗っていた縁でフェラーリのプライベートチームに声をかけて頂きまして,F40で参戦していました。
―その頃のGT選手権というと,どうもスカイラインのR32ばっかり連勝していたイメージが強いのですが。特にインパルのが。
太田さん ひどいですよ,ちゃんとポールだって取ってたのに(笑)。まあ,ただ,やはり日本での開催ですから,最初はイコールでも,そのうちメーカーの思惑で少しずつレギュレーションが変わっていって,海外のメーカーは勝てなくなりましたね。
―そして,98年に大事故に遭われます。これはローリングラップでペースカーがオーバースピードだったために,スタートと勘違いした車輌が前方車輌に追突する多重衝突事故だったそうですね。炎上する車内に1分近く取り残されたとか・・・
太田さん 正直事故のことはもう遠い過去のように感じていて,あまりよく覚えていません。でも確かにその後の人生観は大きく変わりましたね。
―事故後は,2年半にわたって手術とリハビリをされたと聞いています。レーサーとして復帰することを目指してご努力されたのでしょうか。
太田さん いや,リハビリと言っても,社会復帰のためのものではなくて,最初はとにかくベッドから車椅子に乗るとか,その程度ですよ。日常生活に復帰するためのものです。全身火傷でしたから,皮膚の移植手術も23回もしましたし,とにかく身体を治すというだけで,レーサーとして復帰するということはとても考えられませんでした。ただ,そのときはまだ38歳だったし,子供も小さいし,「とにかく身体を治して働かないとなあ」と考えたとき,やはりレースの世界に戻るというのが一番よいのではないかと思ったのです。だって,今更,弁護士とか,税理士とか,サラリーマンになって営業したりとかできないですよ(笑)。
―退院されて初めてサーキットを走ったときはどうでしたか。
太田さん 最初は,怖くて嫌だったのですが,思ったよりは走れたんです。ただ,右手と右足がうまく動かなくなってしまったので,コーナーごとにコンマ何秒か以前よりかかるんですね。それで,「ああ,これはもうプロのレーサーでやっていくのは無理だ。」と諦めがついたんです。
―この事件は,サーキットと主催者を被告にして,99年から2003年まで裁判をされたのですよね。免責の誓約書を公序良俗でひっくり返して,一審で勝訴,高裁で9000万円で和解しています。原告弁護団も相当に頑張ってくれたんですね。
太田さん そうです。本当に正義感にあふれた熱血タイプの先生方で,私も随分きついことを言われましたが(笑),主張も殆ど認められましたし,今は大変に感謝しています。なにしろ,最初は,「太田選手が勝手に猛スピードで走って行って事故を起こした」みたいなことを言われてましたし,当初相談した弁護士さんも「難しい」という意見でしたから。
―その後は,レースを続けながら,執筆活動や講演活動を熱心にされておられます。
太田さん これは妻の勧めもあって,事故からの復帰を「クラッシュ」という本にまとめたんですね。人生においてはチャレンジし続けることがすごく大事だというメッセージを込めています。幸いなことに,この反響が大きくて,講演を頼まれる機会が激増しました。でも,やはり自分がチャレンジし続けていないと講演するにも説得力がないじゃないですか。だから,プロとしてはもう難しいけど,レース自体は今でも続けているのです。
―講演は,すごく熱心にされているようですね。数えてみましたが,月に2回くらいのペースです。努力とかチャレンジといったテーマは,今の若者にはどう受け止められるのでしょうか。
太田さん いや,それがとても熱心に聴いてくれるんです。我々が若かった頃は「シラケ」とかなんとか言って,努力することがカッコ悪いというムードがありましたが,今の若い人たちや子供たちは,目的を持ってチャレンジするということは,むしろカッコいいと捉えているようですね。特に中学生なんかは,最初は「中坊だろ。悩みなんかあんのかよ。」なんて思ってたのですが(笑),講演のあとに質問を受けると,心の本音の部分,叫びのようなものが伝わってきて,すごく楽しくやりがいのある仕事になっています。絶望した状態から,頑張ってチャレンジを続けていくということが,中学生の心にストレートに響くようです。
―そういった若者だけではなくて,「太田哲也とオヤジレーサーズ」の代表として,中高年のレース活動の啓蒙もされておられるようですね。
太田さん そうです。やっぱり40過ぎてオヤジになっても,チャレンジし続けて,輝いている姿を見せるというのはすごく大事だと思うんですよ。子供たちからみても,オヤジ世代がショボかったら将来に夢を持てないじゃないですか。雑誌でそういうことを書いたら,「是非やりたい」という反響があって,それでクラブを作ったんです。皆さん全く初めての方ばかりなので,弁護士の方もどんどん参加して欲しいですね。
―アルファロメオのワンメークに見えますが,アルファじゃないとダメなんですか。
太田さん いや,僕が乗っているのがアルファなので,アルファが多いだけで,車はなんでもいいんですよ。こないだはシーマで来た人がいたなあ(笑)。
―ううむ,シーマでコーナー攻めて,カウンター当ててる姿はとても想像つきませんね・・・。テール流れたら勝手に減速しそうだし(笑)。
太田さん いや,最近の車は,ドライビングの楽しさを満喫できるように進化してますから,スピン防止装置は解除できますよ。大丈夫です。
―そうですか。私は年齢で若干引っ掛かりますが,機会があったら是非参加させてください。本日は,大変興味深いお話ありがとうございました。
太田哲也さん公式サイトはこちら http://www.keep-on-racing.com/