従前「わたしと司法」と題しインタビュー記事を掲載しておりましたが、このたび司法の枠にとらわれず、様々な分野で活躍される方の人となり、お考え等を伺うために、会報広報委員会が色々な場所へ出向くという新企画「関弁連がゆく」を始めることとなりました。
写真家
田沼武能さん
今回の「わたし」は,写真家の田沼武能(たけよし)さんです。
田沼さんは,1929年(昭和4年),東京都浅草生まれの80歳,49年に東京写真工業専門学校を卒業後,サンニュース・フォトス社に入社し,木村伊兵衛さんに師事されました。翌50年からは日本写真家協会の設立に参加し,写真ジャーナリズム分野の確立と発展に尽力されました。59年にフリーランスとなり,65年からは世界の子どもたちをテーマに撮影を始め,84年から現在に至るまで,ユニセフ親善大使である黒柳徹子さんの各国訪問に同行されています。子どもたちの写真のほか,昭和の下町,武蔵野の風景や暮らし,シルクロードの人々などを主要なテーマにして,優れた作品を世に送り続け,85年には菊池寛賞,90年には紫綬褒章,2003年には文化功労者として顕彰されています。戦後日本の写真史そのものと言ってよい田沼さんですが,80歳になる現在でも,日本写真家協会の会長を務める傍ら,精力的に世界を飛び回って作品を撮り続けています。
―田沼さん,本日は宜しくお願い致します。
田沼さんは,昭和4年,写真館を営むお家に生まれていますが,幼少時から写真家になるおつもりだったのでしょうか。
田沼さん いや,それが,親の仕事をよく思わないのは世の習いで,最初は彫刻家になりたかったんです。木を掘るほうですね。兄が写真をやっていて,家を継ぐだろうということもありました。ただ彫刻は戦時中ということもあり父に反対されて諦め,次は日本建築の建築家になろうと思って,大学を受験したのですが,これが中学時代に軍事教練をさぼり内申書が悪くて第一次選考で落ちてしまったのです(笑)。それで,私も諦めがついて,疎開先の足利から東京に出て,東京写真工業専門学校に入ったのです。今の東京工芸大ですね。
―当時は戦後間もないころで,勉強を続けるのも大変だったのではないですか。
田沼さん 食糧難・住宅難の時代です。まだ闇市が全盛期でした。先生も生徒も皆アルバイトをして食うのに必死だったんです。私もバイトで極東軍事裁判の資料の複写をしてました。確か月3400円だったなあ,いい給料でした。当時は,学生と言っても,学費や食費は自分で稼ぐのが当然という感じでしたね。
―学生時代はどんな写真家を目指していたのでしょうか。
田沼さん 私は,報道写真の仕事をやりたいと思っていたのですが,新聞の写真ではなくて,アメリカのライフ誌や,日本で言えばアサヒグラフとか毎日グラフのような写真週刊誌のフィーチャー写真をやりたいと思っていました。
―それで49年にサンニュース・フォトス社に入られたのですね。
田沼さん はい,当時サンニュース・フォトス社では,名取洋之助主幹による「週間サンニュース」というグラフ誌を発行していて,そこで働きたかったんですが,入社直前に休刊になってしまったんです。それで,ニュースの方に回されちゃって,半年くらい暗室作業ばかりやっていました(笑)。その後,いろいろと画策してフィーチャー部門に移ったのですが,そこにいたのが木村伊兵衛先生です。先生が49歳のときに助手になりました。
―50年からは日本写真家協会の設立に参加されていますが,これは21歳のときですよね。どうしてこんな若い頃に協会の立ち上げに参加したのでしょうか。
田沼さん いや,それは,木村先生は面倒な仕事が嫌いで,私がその雑務をするために送り込まれたんです。
―59年にはフリーになっておられますが,会社から離れて,ご自分の写真を撮り始めたということでしょうか。
田沼さん 当時所属していたサン通信社が潰れちゃったから放り出されたんですよ(笑)。なにしろ給料がいつ出るか分からない会社でしたから,社員は皆アルバイトで稼ぎ生活してましたね。私自身,在籍当時から芸術新潮の嘱託もやってました。同時に二つの会社の社員と嘱託をしているわけですから,今の常識では考えられないですよね。
―65年に,アメリカのライフ誌の嘱託になっていますが,子どもたちの写真を撮るようになったのはこの頃からですか。
田沼さん 少し前からですね。私は師匠の木村伊兵衛がライカのカメラで素敵な写真を撮っているのに憧れて,一年間,昼も夜も働いてライカを買ったのです。そのライカで生まれ育った浅草を撮っているうちに,「子どもの写真が多いな。」と気づくのですね。私自身,下町で育ったこともあって,子どもの頃の心象風景を追っているうちに,子どもたちに興味を持ち,撮るようになったのです。
―仕事ではなくて,ご自分の撮りたい写真を撮るようになったわけですね。
田沼さん そうです。ある時,木村先生に,「頼まれ仕事ばかりやっているとマスコミにつぶされるぞ。」と言われたんですが,そうは言っても依頼される仕事を全部やめちゃうと生活が出来ませんから,どうやって両立しようかと考えていた時,アメリカのタイム・ライフ社から話を貰ったのです。
―ライフでは子どもたちの写真を撮るのを中心にしていたのですか。
田沼さん いいえ,とんでもない。ライフはグラフ週刊誌で,私にベトナムに行って仕事をして欲しいと思っていたようです。でも,私自身は,せっかく日本の戦争で生き残ったのに,また命を危険にさらすようなことはしたくない,それで「インドシナ半島以外ならどこへでも行く。」という契約にしてもらったのです。そして,アメリカでの研修のあと,休暇を貰ってパリに寄ったのですが,日曜日のブローニュの森で子どもたちと出会い,写真を撮っているうちに,「そうだ,せっかく海外に出られるようになったのだから,世界の子どもたちを撮るのをライフワークにしよう。」と思ったのです。当時は,日本に外貨がなくて,外務省から海外に出る許可をもらえるのは学者とか商社マンとか,外貨を稼ぐごく一部の人に限られていました。
―84年から黒柳徹子さんのユニセフ親善大使訪問に同行されているのも,子どもたちの写真を撮るためでしょうか。
田沼さん そうです。黒柳さんがユニセフ親善大使になられた時にお願いして,全回同行させて頂いています。行く先はどこも問題を抱えた国々なんです。子どもは社会を映す鏡のようなものですから,子どもを撮ることで,その国の社会背景や国の姿そのものが見えてくると考えています。
―よい写真を撮る能力というのは,一体どのようなものなのでしょうか。例えば,私が同じ被写体で同じカメラで撮っても,田沼さんと同じものは絶対にできないわけですよね。
田沼さん 木村先生の説ですと,撮るテーマに惚れ込まないとだめなのです。興味がなければ,被写体とのコミュニケーションもとれませんし,撮りたいという感動もおきません。今はデジタルカメラが発達したおかげで,4歳位の小さな子どもでもシャッターを押せば失敗なく写真は撮れる時代です。フィルムを巻いたりピント合わせをする必要もありませんからね。その撮った写真が人の心を捉えるかというとまた別です。
―写真家の皆さんは,ご自分の写真の著作権についてはどのように管理されているのでしょうか。
田沼さん CMに使うような写真は契約で著作権買い上げにすることが多いと聞きますが,基本的には自分で著作権を持ち,管理をしています。昔は勝手に写真を使っちゃう出版社もありましたが,今はなくなりました。
―日本写真家協会も写真家の著作権保護のために活動しているのでしょうか。
田沼さん もちろんです。もともと,写真の著作権は明治32年(1899年)から戦後までたった撮影してから10年でした。1967年には暫定的に延長されましたが,それでも12年だったんです。それを日本写真家協会は他団体と協力して取り組んだ結果,71年の著作権法改正で「公表後50年」に,そしてついに97年の法改正により文芸美術並みの「作者の死後50年」になったのです。大体,本人が生きているのに,どんどん著作権が消滅するなんてとんでもない話ですよ(笑)。現在では,欧米並みに70年に延長するため,日本写真著作権協会は文化庁と協議しながら検討を重ねています。
―ただ写真家本人がフィルムを管理するとなると,年月とともに散逸しそうですが。
田沼さん そのとおりです。写真には時代を記録していくという使命があります。協会では,亡くなった先輩写真家たちの撮った貴重なフィルムを後世に伝え残すため,写真保存センターを設立する運動を行っています。イギリスやフランス,アメリカにはありますが,日本にはまだないのですね。これは,今回の補正予算で明るい見通しになりました。現在は文化庁から借り受けた東京近代美術館の相模原の映画用のフィルム収蔵庫を使わせて頂き,年に1万点から2万点を収蔵したいと思ってます。今年は1万点をすでに収蔵させて頂いています。
―これからの活動のご予定をお聞かせ下さい。
田沼さん 今,写真の仕事を始めてから60年近く撮り続けてきた文化人の肖像をまとめるという作業をしています。例えば,室生犀星さんや,横山大観さんなどですが,この中から500人くらいを選んでポートレート集を作ることを考えています。昭和の文芸史・文化人史の写真版ですね。それから,昭和の時代の社会の変遷を撮ったものもまとめたいですね。もちろん,これまでどおり,世界の子どもたちの写真や,武蔵野の写真,シルクロードなどのライフワークは撮り続けるつもりです。
―本日はどうもありがとうございました。これからのご活躍も期待しております。
※注 本文は田沼氏の希望により,2013年9月現在で一部修正しております。
田沼武能さんのフォト人生記
書 名 『真像残像-ぼくの写真人生』
著 者 田沼武能
出版社 東京新聞出版局
出版年 2008年1月