従前「わたしと司法」と題しインタビュー記事を掲載しておりましたが、このたび司法の枠にとらわれず、様々な分野で活躍される方の人となり、お考え等を伺うために、会報広報委員会が色々な場所へ出向くという新企画「関弁連がゆく」を始めることとなりました。
女優
東ちづるさん
今回の「わたし」は,女優の東ちづるさんです。
東さんは,会社員生活を経て芸能界へ入られ,ドラマから舞台,司会,講演,エッセイ執筆など幅広く活躍されております。
その一方で,ドイツのNPO「国際平和村」や骨髄バンクの支援活動などのボランティア活動にも精力的に取り組んでいらっしゃいます。著書には『わたしたちを忘れないで~ドイツ平和村より』(ブックマン社),平和村の子ども達を主人公に絵・文ともにご自身が手がけられた絵本『マリアンナとパルーシャ』(主婦と生活社),『〈私〉はなぜカウンセリングを受けたのか~「いい人,やめた!」母と娘の挑戦』(マガジンハウス)や『ビビってたまるか』(双葉文庫)などがあります。
また,「わたしと司法」シリーズ92で登場された全国骨髄バンク推進連絡協議会の大谷貴子会長とは,骨髄バンクの支援活動を通じて親交があり,大谷会長のご紹介で東ちづるさんにお話を伺うことができました。
―ドイツの国際平和村への支援活動は,どのようなきっかけで始められたのでしょうか。
東さん 1999年にテレビ番組「世界ウルルン滞在記」でドイツの平和村を訪れました。広島出身なので平和教育をみっちり受け,戦争というものがわかっていたつもりでした。でもそれは頭で分かっていただけでした。実際に,地雷や空爆,ナイフ,バーナー,銃などの武器で瀕死の怪我を負った子ども達に出会い,戦争の現実を知るきっかけになったのです。
このような実態を知ってしまった以上,何もしないではいられない,一回の放送だけでいいわけない,そんな思いから平和村の支援活動が始まりました。まずは,『わたしたちを忘れないで~ドイツ平和村より』を,そして次に絵本を描いて,売上の一部を募金にあてました。10年前から,その絵本の原画と平和村の子ども達の写真を展示するチャリティ全国巡回展『戦争とドイツ平和村の子どもたち』を開催しています。
もちろん,私が活動をしても情勢は変わりません。ですが,犠牲になってしまった子ども達をひとりでも救いたいという一心です。活動を始めた当初は,救っても救っても戦争は続き,何も変わらないではないか・・・とやりきれない思いでしたが,平和村は,救われた子ども達は必ず戦争を否定する大人になると信じています。実際,平和村で生活経験のある子ども達は兵士になっていません。
―活動の中で,東さんご自身にも変化はありましたか。
東さん 生き方,人生全てが変わりました。新聞やニュースの見方,感じ方,捉え方も変わりました。
何の罪もない子ども達が,大人の都合で,大人の手によって傷ついているのです。せっかく生まれてきたのに,そこが戦地だったというだけで。あの子たちも私たちと何も変わらない大切な個なのです。傷つけるのも人だけれども,救い癒すのも人のはずです。
―そこまでの情熱が生まれたきっかけは何ですか。
東さん ある少女の一言が忘れられませんでした。戦地の子ども達はある意味老成しています。死生観をもっていたり,大人でもびっくりするような哲学をもっていたりします。
9歳のアンゴラの少女は,私に「日本に帰ったら私たちのこと忘れるんでしょう」と言いました。私は「忘れないよ」と答えたのですが,「いいのよお姉さん,忘れていいのよ。忘れることが人生でしょ」とドライで驚きました。
そう考えないと生きてこられなかった,忘れないとあまりにつらくて,前に進むことができなかったのでしょう。忘れることが生きるすべであり,知恵なんだと。私はそう考えて納得することにしたんです。
ところが,いざ私が帰国する日がきたら,少女は私の腰にしがみついてわんわん泣いて「私を忘れないで,私たちを忘れないで」と繰り返したのです。これが本音です。私も「忘れないよ,絶対忘れないから,また会おうね」と涙が止まりませんでした。私は「あなたが生きていることが,私たちは嬉しいのよ」と伝えたかった。とにかく生きていて,と。それから日本に帰っても子ども達のことが忘れられませんでした。今でも夢に出てきます。会いたいですね。「大きくなったねー」と抱きしめたいです。いつかそんな日がくると信じたいです。それに,私の活動は,私自身のセルフヒーリングでもあるんだと思います。
―いまの日本の社会は,見て見ぬふりをする人が多いと感じるのですが,東さんはどう思われますか。
東さん 私は32歳の時にボランティア活動を始めました。しかし,その前にもSOSを発信する人に気付いたことはあると思います。でも,何らかの活動への一歩が出なかった。
恐らく誰にもタイミングがあるのだと思います。溺れている人を見たら,見なかったふりなんてできません。でも,心の目を凝らし,心の耳をよく傾けなければ溺れている人には気付かないんですよね。私は32歳で気付いたということです。
―我々弁護士は,人の役に立ちたいと思っている人が多いはずです。しかし実際は日々の忙しさもあって,例えば骨髄バンクに登録していない弁護士もたくさんいます。何かメッセージはありますか。
東さん 私は,骨髄バンクというのは素晴らしいシステムだと思います。医療従事者でもない人に,人の生命を救うチャンスがあるのです。白血病は誰もがなる可能性のある病気です。毎年約6000人もの人が発病しています。誰もが「まさか私がなるとは思わなかった」と話されます。他人事ではないんです。
私は,ドナーに登録してない人というのは,ただ詳しく知らないだけなんだと思うんです。治療方法があるのに,医療先進国の日本で,運・不運で生命を落としている患者さんが今もいるという現実を。この現実を知ったら,弁護士の皆さんなら登録されるんじゃないでしょうか。まずは知ろうとすることだと思います。「命」のことですから。
―話は変わりますが,ドラマの中で弁護士の役もされたことがあると思うのですが,一市民という目からみられて,法曹界はいかがですか。
東さん いろんな弁護士,裁判官,検察官の方がいらっしゃると思うのですが,民度と立派な知識は比例するものではないと思います。色々な経験をした方が司法の世界に入ってくれるといいのになと思っています。
―それは,より多くを体験した人の方が何かができるということでしょうか。
東さん 頭の中の知識と現実にはギャップがあるんですよね。私だって芸能界だけにいたらと思うとぞっとします。骨髄バンクとか平和村とか,色々な活動があるからこそ色々な人と巡り会い,色々なケースの中に巻き込まれるんです。おかげで,「みんな違ってみんないい」「ひとりはみんなのために。みんなはひとりのために」ということを身をもって実感しています。
―そんな東さんは,裁判員をやってみたいですか。
東さん 軽々にやってみたいという発言はできませんけれど,こういう制度が開始した以上は選ばれたら真摯に取り組んでみたいと思います。一般生活を送るプロとして,普通の感覚のプロとして,ちゃんと受けたいと思います。
私は仕事以外の好きなことを3つやることをおすすめしています。仕事以外に,自分の世界・居場所を持つ。趣味でもボランティアでも何でもいい。それがいずれ仕事にも役立つと思います。
―実際は仕事だけでも忙しいという中で3つ持つのは大変だと思うのですが,どのように管理されていらっしゃいますか。
東さん まずは,仕事だけで手一杯というとこから,改革しないと無理ですよね。例えば,家庭に夢中になるとか,育児を楽しむというのがあってもいいと思うんです。
日本はどうしても,仕事がメインでしょ。そこに生き甲斐を求めるでしょ。別に仕事以外に生き甲斐があってもいいのに,特に男性は仕事だけで評価され過ぎだと思います。仕事の成果と人格は違うものだと思います。でも,そこがイコールだと判断されやすいですよね。でも,仕事ができる嫌な奴はいっぱいいますよね(笑)。
あと一年の生命と宣告されたら,仕事だけはしないでしょ?まだまだ生き続けられるような気がするから,とりあえず仕事しちゃうんでしょうね。
―そういうお考えというのは,いつごろから感じるようになったんですか。
東さん こういう活動をし始めてからです。私は仕事が大好きなので,仕事に依存し,支配されている人間になっていたと思います。ボランティア活動をすることで変わったのでしょう。仕事も人生のなかの一部じゃん,と楽になりました。まぁ,人生いろんな時があるのだと思いますけどね。
―弁護士へのメッセージがあればお願いします。
東さん 私達はどうしても「先生」と呼んでしまうんですが,そのときに力関係ができてしまうイメージがあります。是非,対等,同等の意識で弁護していただければと思いますね。これはお医者さんでも同じなのですが,先生の言葉は神の声のように一喜一憂してしまいます。私たちも意識を変えて賢いクライアントにならなければならないと思います。
―最後に今後の活動のお知らせなどがあればお願いします。
東さん 今年芸能生活25年目,50歳の節目に,愛や仕事,生や死などについて書いた本『らいふ』(講談社)を5月19日に出版しました。是非手にとってみてください。
―本日は貴重なお話しをありがとうございました。
書籍紹介
書名 『らいふ』
著者 東ちづる
出版社 講談社
出版日 2010年5月19日