山梨県弁護士会 中野宏典
本当は全然関係のないことを書こうかと思っていたのだけど,やはり一法律家として看過ごすことができないわけで,というのも,9月に安保関連法が成立したことについて。
圧倒的多数の憲法学者,歴代の内閣法制局長官,元最高裁長官,元最高裁判事をはじめとする多数の裁判官OBなどが,こぞって違憲と述べているにもかかわらず採決を強行したのは,立憲主義違反であり,議会制民主主義の歴史に汚点を残す暴挙と感じざるを得ない...とまあこういったことは各弁護士会の会長声明等に,より詳しく精緻に書かれていることと思いますので,ぼくは少し違った視点で,すなわち,ある問題に対する専門家の役割,といった点からこの問題を考えてみたいと思うわけです。
今回の件で改めて明らかになったことは,国や政府というのは,専門家というものを極めてご都合主義的に利用しているのだ,ということで,そんなことは今に始まったことじゃあない,諸子百家の昔からそうなのだ,と言われればぐうの音も出ないわけですが,今回の件で,ぼくは,国民の中にも実はそれなりにそういう考えを持った方がいるということを感じて,実にかなしい気持ちになったわけです。
この「ご都合主義」の問題を考えるに当たっては,原発訴訟,という補助線を一本引いてみるとより分かりやすくなるんじゃないかと思います。原発の差止めや処分の違法性を争う訴訟において,国や電力会社は,多数の科学技術に関する専門家が安全だと言っているんだから原発は安全なんだ,という主張を繰り返してきました。これは,福島原発事故が起こった後も変わりません。福島原発事故の教訓を踏まえ,専門家が安全だというのだから安全だ,素人は余計な口をはさむな,というのです。ちなみに,実は相当に多くの専門家がその安全性には疑問を呈しているのですが,それらは無視されています。
一方,今回の安保法案審議では,政府は,どんな専門家の言葉に対しても,所詮は一個人の意見に過ぎない,と切り捨ててきました。両者を比較すれば,政府のご都合主義は明らかでしょう。
こう書いてくると,ぼくの方こそ,安保法制については専門家の意見を尊重しなさいと言い,原発については専門家の意見は信用できない,と言っているのではないか,それはご都合主義なのではないか,と思われる方もいるかもしれません。
率直に言うと,今回の件で,ぼくはそのことをよくよく思い悩み,自分もご都合主義なのかもしれないな,と考えさせられたわけで,それでもひとまず思い至ったのは,専門家の意見を踏まえてものを考えるときにぼくたちが注意しなければならないこと,すなわち,専門家がその専門性を生かして判断できる部分はいったいどのあたりまでなのか,ということを注意しなければならないのだ,ということでした。
原発訴訟においては,科学者がその専門的な知見を踏まえて判断できるのは,「科学的な相場観」のようなものだと言われています。例えば,こういう設計をしているから,事故が起こる可能性は1万年間に1回くらいですよ,というようなものです。その相場観を前提にして,それを安全と考えるのか,危険と考えるのかは,実は法的な,あるいは哲学的な判断で,科学者でなければ判断できないことではなく,むしろ一般国民の感覚でこそ判断すべき部分だと思います(ちなみに,ドイツでは,倫理委員会の報告をもとに脱原発に舵を切っています)。それなのに,科学者が安全というから安全なのだというのは,専門性の射程を誤ったものです。
これに対して,安保法制について,法律の専門家が判断できるのは,法案が合憲か否か,という部分です。多くの専門家はまさにそのような視点に立って,違憲である,と断じてきたわけですが,そのまさに専門性の核心部分に対して,「一個人の意見にすぎない」と切り捨てるのは,明らかに専門家の意見を軽視するものでしょう。
翻って,ぼくたち専門家に求められている役割は,ぼくたちが行う専門的判断の外縁がどこなのかということを,一般の方に分かりやすく説明する,ということなのかもしれません。そうやって専門家の方からしっかりと射程を説明することが,専門家としての信頼にもつながるでしょうし,一般の方に正しく判断していただくことにもつながると思います。というわけで,大幅に文字数をオーバーしてしまいましたが,勘弁れん。
(2015年10月27日)